Sound & Silence

本多重夫の音楽、オーディオ、アートなどについてのプライベートブログ

LOW / HEY WHAT - 黙示録的な讃美歌 - 2021年ベストアルバム

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『Low』は、1993年に米国ミネソタ州で、ギターとボーカルのAlan Sparhawkとドラムとボーカルの Mimi Parkerの二人で結成されたグループ。二人にベースが加わり3人のミニマル編成で音楽は非常にゆったりとした素朴なもので、所謂ローファイの代表的なグループだった。

僕の印象ではSub Popレーベルに変わった7枚目の『The Great Destroyer』から少し方向が変わって、通常のギター、ベース、ドラムという一般的なアプローチからよりラジカルでアブストラクトな要素を含むようになり、BJ Burtonがプロデューサーとなった最近は、さらにその方向性が深化している。

HEY WHAT - ねぇ、なんなの?

Lowのファンなのに、実は本作『HEY WHAT』がリリースされていることに全然気がついていなくて、またしてもhiroshi-gongさんのブログで知ることとなった。

hiroshi-gong.hatenablog.com

本作は2018年リリースの『Double Negative』に続く13枚目のアルバム。数年に1枚はアルバムをリリースする高いクリエティビティを維持しづけている。

全10曲。サウンド的には『Double Negative』の実験性をさらに推し進めていて、二人のハーモニー、特にMimi Parkerの澄んだ歌声は宗教的ですらある。そこにカットアップのように歪んだ音がパズルのように埋め込まれ、見えない音のステンドグラスが現れる。

去ることの結末は
分かっているとは言えないけど
止まることより残酷なもの
それでも
白い馬が連れて行ってくれるはず

と歌う『White Horses』で始まる。『Hey』の出だしはこんな歌詞。

ねえ、
私たちがヘビィな感じでいるのに気がつく前 ミシガンと湖は通り過ぎなかった
ねえ、
私は絶対抱え込むことはできないし
戻って日陰の止めた車の中で泣くだけ
ねえ、
それをあげるのにどれくらいかかるの
他のやり方はしないのに
ねえ、
もっと話をして、もっとお祈りするように頼んで
多分、それがあなたの最後の言葉になるから

レコードだと、この曲の最後のMimi Parkerのコーラスがエンドレスカッティングされている。

アルバムは最後は『The Price You Pay (It Must Be Wearing Off)』。

痛みを忘れるために何が欲しいか知ってるわ
でもどのみち、あなたにふさわしいものじゃない
自分の言葉で行こうとしているけど
それはばかげたことなの
ばかげたことなのはわかってる
それは擦り切れて
もう終わってしまったこと
もうないの

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LOWのアルバムは出るたびに、自分にとってのベストアルバムだけど、『HEY WHAT』もそう。2021年のベストはこのアルバム。

46分間の黙示録的な讃美歌。

HEY WHAT

HEY WHAT

  • アーティスト:LOW
  • SUB POP
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長く暗い夜を過ごすための10の音楽 - 自分を見つめ直すためのささやかな音楽の旅

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はてなブログ10周年特別お題「好きな◯◯10選」という企画で書いてみる。僕は子供のころから暗い音楽、普通でない一風変わった音楽が好きだった。そういった音楽を聴くと安らぎ、その場所に安心していることができる。そして、そうした音楽を聴くといつも考える - 『この音楽はどこからやってきたのだろう?』- それは自分が求めているから、そうした音楽に出会うのだとわかるまでに、それほど時間はかからなかった。

パンデミック禍の2度目の冬になり、その長く暗い夜を過ごすための10の音楽を選んでみた。

(1)Emma Ruth Rundle - Return


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Emma Ruth Rundle(1983 -)オレゴン州ポートランド在住。前作2枚はストーナーぽいハードなバンドサウンドだったが本作はピアノとギターのみ。痛々しいほどの誠実な声で歌う。

このひどい世界を作ったあなた
あなたをなんとかしてくれる人はいない
全ては時間の中で失われ
いったいどこへ行ってしまったの?

私に返して
もう一度戻ってきて
私に返して
もう一度戻ってきて、ねえ

(2)Chelsea Wolfe - 16 Psyche


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Chelsea Wolfe(1983-)は、今ではアメリカン・ゴシック・ロックの重要な存在。両親がカントリー音楽のミュージシャンだったこともあり、アメリカの伝統的フォークソングにも造詣が深い。この「16 Psyche」はひとつ前のアルバム『Spun』に収録されていた曲。

16の精霊が
昏睡から静かに揺さぶる
ずっと全てを知っている
「私にはできない」と彼女は言う
「助けてあげたけど、私にはできない」

(3)Chelsea Wolfe & Emma Ruth Rundle "Anhedonia"


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Chelsea WolfeとEmma Ruth Rundleの二人が自殺防止キャンペーンのプロジェクトのために歌った曲。「Anhedonia」は「無快感症」のこと。

私はあなたを静かに見守るもの
私はあなたの境界線
私はあなたを守り大切にする
だからあなたの心を私の近くへ

(4)Anna Calvi - Ghost Rider


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Anna Calvi(1980-)は、英国ロッカーでギタリスト。SuicideのボーカルAlan Vegaが亡くなった年のツアーでのトリビュートカバー。その場の空間を切り裂くスライドギタープレイが圧巻。この「Ghost Rider 」が本質的に持っている危うさ、ダークネスを見事にとらえている。

(5)Brendan Perry - Berimbau


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Brendan Perry (1959-)はオーストラリア出身だが英国4ADレーベルでデビューしたゴシックグループ「Dead Can Dance」の創設メンバー。これはソロでの2019年のライブ映像。曲はボサノバのスダンダードナンバーの『Berimbau』。彼が歌うと別の音楽に聞こえる。

(6) Nordic Giants - 'Through A Lens Darkly' - ‘The Last Breath'


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Nordic Giants は二人組の英国のポストロックユニット。メンバーは匿名でライブではバイキングスタイルの衣裳に身を包み、スクリーンに映像を投影するマルチメディアショーを展開する。これは彼らのDVDに収められていたもので、‘The Last Breath(最後の呼吸)’ という10分程度のショートフィルムに演奏を加えたもの。なんでもない日常が変わってしまうと、人はいかに残酷で恐ろしい存在かが炙り出される。

(7)Alexis Marshall - Open Mouth


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Alexis Marshall は米国インダストリアルロックバング「Daughters」のリードボーカル。すごくアメリカ的な暴力を含んだ狂気を感じさせる。

いったいいつ生きるのか
「なんて世界だ!」を奴らは言う
この世界でいつ生きるのか?
この世で、次でなく
奴らは何も考えちゃいない
寝てる時に夢もみない
走っていく先に歩いてもいかない

(8)Scott Walker + Sunn O))) - Brando - Film by Gisèle Vienne


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Scott Walker(1943-2019)は米国人なのに1964年に英国で3人組の「Walker Brothers」でデビューして「ダンス天国」のヒットでアイドルとななる。もちろんScott Walkerは芸名で、Walker兄弟は作り話。後にソロに転向してから実験的な方向に進み、60歳を超えからドローンメタルバンドのSunn O)))と共演するなどさらに音楽的に先鋭化し、不安、死、病、性をテーマにしたアルバムをリリースした。この曲はSunn O)))との共演。曲をベースにしたショートフィルム。

(9)AMENRA • A Solitary Reign


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Amenraはベルギーのポストロック、ポストメタルグループ。リーダーでボーカルのColin H. van Eeckhoutは、上半身にピンのようなものを刺して流血しながら観客に背を向けてステージ奥のスクリーンに向かって絶叫する。イタリア南部やスペインでキリストに扮した男が十字架を背負い、荊の冠を被り全身を鞭打たれて血を流しながら通りを練り歩く儀式のように苦悶を追体験し、自己犠牲による救済を目指しているのだろうか。

私はお前から切り離され
私はお前の古い傷
古い傷
我が母よ
今晩は子守唄を歌ってほしい
ずっと愛していた
あの孤独な場所へと

(10)Donovan - I Am The Shaman


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Donovan(1946-)は、英国のフォークシンガー。1960年代のヒッピー、フラワームーブメントの中で甘い声で「Sunshine Superman」「Mellow Yellow」「Hardy Gurdy Man」などを歌うメルヘンの貴公子だった。その彼も今は75歳。そして今年、デビッド・リンチのプロデュースで映像をリリース。なんとタイトルは「 I Am the Shaman」。

偉大な星々は巡り
星々に思いをはせると
私に魔法をかける
そこにどうやって行けるかはわからないが
どこへ行くのかは知っている
全て私が知ること
私が知る全てのこと
お前の可愛い目を乾かしてくれるのは誰?
飛ぶんだ、ローラレイ
星の輝く空を
私はシャーマン
私はシャーマン

*****

長く暗い夜に音楽に耳を傾ける。耳からちょっと飛び出たアンテナがメッセージをつかまえる。そして感じること。音楽を聴く前と後で自分が変わったことを。暗い場所で聴く音楽は心地よい。でも、いつまでもそこに止まっていてはいけない。夜が明けてしまう前に立ち去らないと、その場所ごと消えてしまうから。

Title Photo by Sharon McCutcheon on Unsplash

Barbara Hannigan / Vienna: Siecle - バーバラ・ハンニガン / ウィーン:世紀末 - 100年前の音楽を今の歌として歌う

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Barbara Hannigan(バーバラ・ハンニガン 1971-)は、カナダ出身のソプラノ歌手で20世紀の現代音楽作品を得意とする。もちろんテクニックは素晴らしいのだが、それだけでなく作品への理解が深く表現力にも優れ、現代音楽の声楽曲がこんなに美しいものだったかと新たな発見をもたらす。また指揮者としても活動している。昔からピアノを弾きながら指揮する「弾き振り」というのはあったが、ソプラノを歌いながら指揮する「歌振り」は彼女だけではないか。

僕が彼女を知ったのは、この2015年にサイモン・ラトル指揮ロンドンフィルでリゲティの作品を歌うビデオ。コスチュームもすごいが、完全にコントロールされた声でこの難曲を歌い切るだけでなく、この曲がこんなに魅力的な作品であることを示している。


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バーバラ・ハンニガンの類まれな才能は、現代作品を聴く価値のある音楽としているだけでなく、その音楽が2021年の現代において意味のあるものであり、そして何よりも芸術的に美しいものであることを表現していることにある。また先のビデオのように歌だけでなく、その音楽が持つ世界に合わせて彼女自身が女優のように立ち振る舞う。

ウィーン:世紀末 - 使い古された表現に新しい息吹を吹き込む

この『Vienna: Siecle (ウィーン:世紀末)』と題されたアルバムは2017年に録音されたもので以前からAppleMusicで聴いていたが、少し前に45回転2枚組のアナログ盤の売れ残りをDiskUnionのサイトで見つけて手に入れた。1000枚限定プレスの331枚目のナンバーが刻印されている(余談だがDiskUnionは売れ残るとアウトレットで出るので、まめにサイトをチェックするようにしている。ただ最近はプレス枚数が減ったのか、以前ほど売れ残りがないように感じる)。オーディオ的にはやはりハイレゾのストリーミングとは違う表現で、45回転ならではの声とピアノの生々しさでより音楽に投入できる。

この『ウィーン:世紀末』というタイトルは、1980年ごろからよく見かけて使い古された感があるが、他にいい表現もないのだろう。このアルバムに収めれているのは、1889年から1920年までに作曲されたヒューゴー・ヴォルフ、アルマ・マーラー、アレキサンダー・ツェムリンスキー、アーノルド・シェーンベルク、アントン・ヴェーベルン、アルバン・ベルクの歌曲合計31曲。

時代的には、ハプスブルク帝国の末期で近代と現代の交差点であり、音楽的には爛熟したロマン派からシェーンベルクによる無調音楽の扉が開こうとし、芸術ではクリムトやエゴン・シーレが登場、政治的には第一次大戦が始まり、さらにその後にはファシズムの足音が迫ってくる。不安な影が漂い始めた時代。

歌曲は歌手だけでなく伴奏が大切 - 詩と音楽が凝縮された芸術

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アルバムカバーで初老の男性と女の逢引のように抱き合っているのは、実はバーバラ・ハンニガン本人とピアノ伴奏のReinbert De Leeuwの二人。アルバムカバー写真もいつも自分で演じるバーバラ・ハンニガンらしい演出。まあ、このカバーがアルバムの雰囲気を物語っている。

クラシックの歌曲、特にこの1880年から1920年ごろの歌曲は歌手だけでなくピアノの伴奏が非常に重要で、伴奏は歌の添え物ではなく、それだけでも独立した音楽であり、歌とのアンサンブルで歌詞の世界が描写されていく。ピアニストのReinbert De Leeuwは残念ながら故人となってしまったが、彼のピアノ演奏は決して出過ぎることはなく、それでいて歌の影に陥ることもない絶妙なバランス感覚を備えている。彼のピアノが鳴り始めるだけで歌の舞台は完全に作られている。

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このアルバムの収められている歌曲を聴く面白さは、詩と音楽が完全に一体化していていること。1曲は1〜3分程度しかなく、詩と音楽が凝縮されている。
アルバムはシェーンベルクの「期待」から始まる。

枯れた樫の木のそばの
赤い小屋から
女の青白い手が
私を招く

といったような詩の歌。ヴェーベルンの「渚にて」では、

世界は沈黙に覆われ
おまえの血の流れる音だけが聞こえる
その輝く奈落の底に
彼方の日が沈んでいく

と歌われる。この時代の不安な雰囲気がなんとなくわかるだろうか?  ただ彼女が歌うと不安が不安なだけでなく、そこに避けがたい甘美な香りを含んでくる。

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それはバリトンのデイトリッヒ・フィッシャー=ディスカウが1970年に録音したLPの緊張感に満ちた歌い方とは全く違う。作曲から50年で録音されたものと100年経て録音された時代の違いなのだろう。

このアルバムでは無調から無調一歩手前の後期ロマン派へと時間を遡る構成になっている。中でも、ベルクの『初期の7つの歌曲』と作曲家グフタフ・マーラーの妻だったアルマ・マーラーの歌曲の美しさは際立っている。アルマは夫の酷評で作曲を止めてしまうのだが、それは同じ作曲家としての嫉妬心があったからではないか。夫の作品よりもアルマの作品の方が洗練された美がある。ツェムリンスキーの歌曲も録音が少ないが芳醇な音の香りが漂う。

最後は歌曲に人生を捧げてしまったヴォルフの「ゲーテ歌曲集」から「ミニオン〜知っていますか、あの国を?」が収められている。ヴォルフは自分の作品が受け入れられない境遇と梅毒の感染症の進行で肉体と精神を病んで43歳で他界してしまう。その残された作品は美しく、時に激しく、世紀末の音楽に大きな刻印を残している。

僕はヴォルフの歌曲を聴くと、ティム・バックレイや父親と同じように若くして亡くなったジェフ・バックレイの音楽に通じるものを感じる。自分の人生を歌に捧げてしまった者に共通するものを。

それは、バーバラ・ハンニガンのソプラノで聴いていると、100年前の音楽を聴いている気がしないからかもしれない。

Pink Floyd / A Momentary Lapse of Reason(2019年 リミックス版) - ノスタルジーから逃れて

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最近は旧譜のリマスターも一巡したのか、リミックスブームがロックやジャズのジャンルを問わず続いている。同じアルバムを何回リリースできるかギネス記録を目指しているような往年のグループの作品もあったりするほど。僕は基本的に「リミックス」ものは買わない。特にアルバムのメンバーでも当事者でもない者がリミックスに関わったものは避けている。どの音も均等に扱われていて、演奏の細部まで極めて明瞭になっているのだが、元のアルバムが持っていた音楽的なダイナミズムが失われてしまっているケースが少なくないように感じるから。影で支えていた音まで目立って聞こえる必要はないでは。ヘッドフォンで音楽を聴く人は音数が増えて陶酔間が増すのだろうか? それは僕が、4Kとか8Kの映像にウンザリしてしまうことに通じているのかもしれない。すべてがあからさま過ぎて鮮明なのにツクリものであることが明らかで興醒めしてしまうのだ。

このアルバムを買おうと思った理由

もちろん好きなアルバムなのだけど、このPink Floydの『A Momentary Lapse of Reason』のリミックス版アナログ盤を予約までして買おうと思ったのはいつくか理由がある。

持っている日本盤の音が悪い:当時CBSソニー時代のPink Floydのアルバムはどれも音が不鮮明でレンジが狭い気がする。同じアルバムでも同社のMaster Soundシリーズになると格段に良くなるのでレギュラー盤だけの問題かもしれない。

単なるリミックスではなく再構成されている:今回のリリースにあたり、プロデューサーのBob Ezrinなどが弾いていたキーボードパートの一部がRick Writeの演奏に差し替えられて「よりフロイドらしさ」が期待できそう。ドラムも部分的にNick Masonが再録している。

第三者が関与していない:このリミックスのプロデュースはDavid Guilmoreと当時の録音エンジニアだった Andy Jacksonの二人で行われていて第三者が関与していない。

45回転・2枚組:オーディオ的には元のアルバムが45回転2枚組になったことで高音質が期待できそう。

入手困難となるリスク:最近アナログレコードのプレスが増えていることと、売れ残りがでるのを避けるためプレス枚数が以前ように多くなく、出た時に買っておかないと後からだと中古でもプレミアム価格になってしまう危険がある。レコードの原材料のビニールの価格も高騰しているので今後はレコードはさらに高くなりそう。

2019年版:A Momentary Lapse of Reason - ルネサンス絵画の修復作業のようなリミックス

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元の『A Momentary Lapse of Reason』は法的闘争やいろんな経緯があって、Roger Waters抜きのPink Floyd名義のアルバムとしてとして制作されて1987年にリリースされたもので、プロデュースはDavid GilmoreとBob Ezrin。Bob Ezrinはドラマチックなアルバムの制作に長けたプロデューサーで、商業的には成功しなかったが Lou Reedの『Berlin』は彼の代表作と思う。

Roger Watersのパラノイア的妄想の最初の爆発だった『The Wall』の共同プロデューサーとしてBob Ezrinがいなければ、あのアルバムはバンドもろとも空中分解していたことだろう。その後もGilmoreの2枚目のソロとなる『About The Face』のプロデュースも行い、その流れでこの『A Momentary Lapse of Reason』も見事にまとめ上げている。

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今回のリミックスでもBob Ezrinの施したサウンドバランスやアルバム全体を覆う雰囲気はそのままで、いかにも「リミックスしました!」という派手さはなく、まるでルネサンス期の絵画の修復作業のように、元のサウンドやコンセプトに忠実に、丁寧に作業された印象がある。

1987年盤は、その時代のサウンドに合わせた処理がされていて、ボーカルのイコライジングが強めで、ドラムもゲートが効いた「ドスっ、バスっ」といったエレクトリックドラムみたいな音だった(実際に一部はドラムマシンを使用したらしい)が、2019年リミックスでは、ドラムの再録音を含めより自然な音になっている。ボーカルが必要以上に前面に出るこはなく、演奏とも絶妙がバランスが保たれている。

音質的には低音が厚い、大きなピラミッド型のサウンドステージ。Pink Floydらしいというか、Wish You Were Here - Shine On You Crazy Diamond時代を彷彿とされる。

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アナログ盤なのでブックレットも豪華でサイズが大きく見応えがある。ただアルバカバー右上の大きなライトプレーンはなかった方が好みかも。オリジナルでは遠くに小さく写ってたのが手前に来た、という意図かもしれないが、それよりも空を広くとって波とベッドだけのシーンがこのアルバムには合っている気がする。

音楽的にもオーディオ的にも優秀なリミックス

45回転・2枚組となったことでオーディオ的にはいかにもアナログ盤らしい、抑揚のあるダイナミックなサウンドになっている。以前の日本盤での不満は解消。何度でも繰り返し聴きたくなるほどいい。

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このアルバムでは特に「Yet Another Movie」から「A New Machine PT2」までの小曲が組み合わせから「Sorrow」のクライマックスまでの流れが素晴らしく、2枚組では「Yet Another Movie」から「A New Machine PT2」が第3面に、最終面は分厚いサウンドの「Sorrow」1曲のみ、という大胆なカッティングになっている。

拙宅だとストレートアーム付いたV-15 TypeVのカートリッジでオーディオ的にクリアなサウンドを楽しむのもいいのだが、音楽的にはS字アームに付けたV-15 Type3の初期型の密度のある音で聴いたほうが、陰りのある世界が迫ってくる。

****

何度も繰り返して聴いて、やはりこのアルバムは「Sorrow」につきる。それは当時も今も変わらない。その感覚はずっと続いている。ノスタルジーではなく、リアルなものとして。

一晩中、風が吹いている
埃が目に入り、何も見えない
破られた約束よりも、沈黙が大声を上げる

ものがたり西洋音楽史 / 近藤 穣 - モダニズムの終焉と芸術音楽の終わり

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著者の近藤 穣(1947-)は、武満徹の1世代下にあたる作曲家で、音楽的な傾向は武満徹に似ているように思う。それは線形的な音楽でミニマリズムではないが、響きは洗練された美があり、聴き手が作品との距離を自由にできる余白がある。

また、近藤 穣は著作も多く、作曲家であると同時にかなりの音楽研究家でもあり古典から現代までの作品のスコアをかなり読み込んでいるようだ。ブーレーズやシノポリのように指揮者に転向しても才能を発揮したかもしれない。1970年代に「線の音楽」が彼の最初のアルバムで、コジマ録音から発売になり、同名の著書も発売されていた。

本書「ものがたり西洋音楽史」は、2020年に岩波ジュニア文庫の1冊として発売されたもので、アマゾンのレビューでは「ジュニア文庫としては難し過ぎる」と指摘されたりしているが、ジュニア文庫だからと言ってレベルを下げる必要はないだろう。中学、高校生なら十分に大人向けの一般書籍や評論で読んで理解できるわけで、むしろ大事なのは余分なバイアスを排除して体型的に理解できるように書くことにある。その点、本書はスコアへの深い洞察により整理されており、大人が読んでもクラシック音楽における西洋音楽史をよく理解できる。どうして音楽文化は変容したのか、社会、特に時の権力と音楽の関係がどう影響を与えたのかなど、これだけ平易な文書で説明されたものなく、得られることは多い。

歴史は現在に向かって直線的に発展するものではない

音楽史に限らず何かの歴史が語られるときに、往々にして「発展の歴史」として捉えがちだ。つまり、「Aよりもその後に来たB、さらに後のCが優れている」という考え方。著者はまずそうした視点に疑問を提示し、本性の位置が明確に示されている。

私たちに私たちの音楽文化があるように、過去の時代には、それぞれの時代にそれぞれの音楽と文化があります。それらの間には、当然、様々な関わりや共通性があるのですが、一つ一つはそれ自体の価値を持った独自な存在であって、決して「途中の段階」ではない。こうした見方に基づいた「音楽史」の物語は、いくつもの独立した音楽様式の鎖のような連なりとして描かれることになります。そしてこの本はまさにこのような見方から書かれた物語です。

本書では7世紀の単音列のグレゴリオ聖歌から20世紀の1970年代の現代音楽までの歴史をカバーしているが、著者が指摘するように、それは単純で素朴な形であったとしても楽譜として記録があるから残ったものであって、そうでない吟遊詩人をはじめとする世俗音楽は完全に失われてしまっている。そして楽譜が残っていたとしても、その演奏はどうなのだろう?

失われてしまった演奏の記憶

例えば、バッハの音楽は譜面が残っているが、譜面に記載されていることで音楽が再現できるのかはかなり怪しい。著者が指摘するのは、当時の演奏は作曲家本人を含むごく一部の音楽家に限られていて、その演奏の細部は演奏家の中で伝承されていて、スコアに記載されているのは。そのごく一部に過ぎない可能性がある。

しかも、バッハはその死後、ヨーロッパの変動の中で19世紀後半まで忘れられた作曲家だったので演奏の伝統も途絶えてしまっている。また当然楽器も違う。バッハの時代には小さなサロンで弾かれるようなハープシコードしかないし、弦楽合奏も小編成のものしかなかった。

これは僕が個人的に思っていることだが、20世紀に入ってからの大編成でのバッハの管弦楽や協奏曲の演奏や、ピアノによる演奏は、「バッハのスコアを元にした新たな音楽の探究」として聴くべきで、そこには演奏家がバッハのスコアにインスパイア(そのスコアの研究を含め)されて生み出されたもののウエイトが大きい。それは、指揮者メンゲルベルクの有名な独自の改編版とでる大規模な「マタイ受難曲」の演奏、グレン・グールドやタチアナ・ニコラーエワのピアノ演奏などは演奏家の芸術家としての表現が優っている。

その一方で1980年ごろから古楽復興では、「原点回帰」に向かい、当時の演奏方法や楽器への研究を基に、楽器の復元や小規模な編成でバッハの時代の演奏そのものを復刻させる演奏のコンサートや録音が多数リリースされて人気を得るようになる。ただ、そこにあるのは一種の考古学的な指向性のように思えるのだが。

「芸術としての音楽」の探究

西洋音楽はまず最初はキリスト協会、そして帝国の時代には王侯貴族に庇護されて発展していく。高度に洗練された音楽を持つことで、支配権力側にとっては自らの権力や威厳の表象であったり、社会的地位を誇示する、あるいは国家や政府にとっては国民を統合する手段として大きな利点があったことを意味していた。

「芸術としての音楽」の時代の作曲家は、「芸術音楽こそが最高の価値を持つ音楽である」という信念に基づいていた。20世紀のモダニズムの作曲家も「新しい(現代的な)芸術にこそ価値がある」という揺るぎない信条があった。

ベートーヴェンの時代だった18世紀から20世紀の「芸術としての音楽」のありようを著者は次のように総括している。

一八世紀半ばからほぼ二世紀にわたって、作曲家たちは、芸術音楽作品の創造に邁進しました。その創造の探究の結果、音楽の様式は多様に変化し続けます。そうした音楽様式の変化に応じて、この期間の音楽の歴史を、古典派、ロマン派、二〇世紀といったように区切って記述することが通例になっています。しかし、そうした変化の流れの底には、一貫して、「芸術としての音楽」という一定の考え方の堅固な土台があります。中世が「言葉の乗りものとしての音楽」を、ルネサンスが「言葉を収める伽藍としての音楽」を、そしてバロックが「音楽の劇場」の実現をめぐって展開したのだとすれば、芸術の概念が確立した一八世紀後半からその概念が崩壊する一九七〇年代までを、「芸術としての音楽」を追究した時代として一つに括って考えることができるでしょう。

モダニズムの終焉

そして20世紀になっても第2次大戦後しばらくは国家が支援する「芸術としての音楽」は続く、東西冷戦の中でソビエトでは共産主義を喧伝し、国民を鼓舞する音楽としてショスタコーヴィッチのような屈折した作曲家を生み出し、西側では国家が新しい先駆的な前衛音楽を文化的象徴として、シュトックハウゼンやブーレーズ、クセナキスといった作曲家を支援する。その絶頂期の1970年の大阪万博のパビリオンは前衛音楽や前衛芸術のショーケースだった。

しかし1970年代中頃から音楽を取り巻く様相は変わってくる。現代音楽ではテリー・ライリー、スティーブ・ライヒ、フィリップ・グラスといった米国勢が非西欧音楽を取り入れ、リズミックにフレーズが反復されるミニマルミュージックが台頭し、現代音楽の枠を超えてポピュラリティを得る。さらにアルヴォ・ペルトやグレツキなどによる中世音楽やロマン主義にも通じる新単純主義の作品のヒットなど、「新しい芸術を追及する」とは違った時間を遡るような方向に進み始める。

そして、クラシックだけに限らず、あらゆる音学ジャンルや芸術文化において「分かりやすこと」重要視されるようになる。それを著者は、「モダニズムの終焉」として次のようにまとめている。

もし、他の種類の音楽にも、芸術音楽と異なってはいても同等の価値があるのであれば、芸術音楽だけをことさら尊重する理由はありません。ましてや、音楽が、大衆におもねようとするこんにちの国家的な文化政策に効率的に利するものであり得るとすれば、それは、一般の聴衆との間に距離ができてしまった前衛音楽などではなく、大多数の人々がなじんでいるポピュラー音楽であるということになるのでしょう。

西欧音楽の歴史の「芸術としての音楽」は、1970年代に終わっている、と。

ポスト・モダニズムの時代

もちろん今でも「芸術としての音楽」がなくなったわけではなく、それは一部では続いているが、その様相は随分と違ったものになっている。純粋の音楽を追求する人たちは、例えばBandCampのような場所で直接聴き手も作品を伝えようと試みる。もう体制や文化エージェントはあてにはできない。

さらに音楽だけでなく他のジャンルにおいても、インターネット上でのソーシャルネットワークやビデオ共有、配信サイトなど、作り手の大衆化は恐るべき速度で進んでいる。昔、アンディ・ウォーホールは「誰でも15分なら有名になれる」と予見したが、今やTikTokの10秒のビデオがあれば、何億人もの人々からの注目を集めることができる。それを躊躇なく価値のない「くだらないもの」とできるのか? あるいは「異なった価値」として捉えるのか? 

著者は、今の状況を「それぞれに異なった固有の価値をもち、それらの価値の間に優劣はないとする相対主義的な考え方」が一般的になった時代と指摘する。

さきほど前項の終わりで、古楽の復興運動が「それぞれの時代の音楽にはそれぞれの価値がある」という考え方を導いたとお話ししました。これと同様の相対主義的な考え方は、じつは、過去の各時代の音楽についてだけではなく、現代のさまざまな種類の音楽──芸術音楽、諸民族の伝統音楽、ポピュラー音楽、など──に対しても当てはまるものです。つまり、西洋の芸術音楽も、日本の伝統音楽も、あるいは他のどこかの地域の伝統音楽も、ポピュラー音楽も、それぞれに異なった固有の価値をもち、それらの価値の間に優劣はない。そうした考え方が、徐々に一般的になっていくのです。

一見、こうした「相対主義的な考え方」は公平でオープンで理想的なように思えるが、ともすると批評や議論を受け付けない危険性を抱えている。「どれもが価値があって素晴らしい」というユートピア的な思想の先で待っているのは本当にユートピアなんだろうか?

この本の最後は唐突に終わる印象があるが、それはそのまま、この本が想定している若者たちに投げかけられているのかもしれない。残念ながら、もう僕にはユートピア的な思想の先のなにあるのかを見届ける時間はないだろうが。

SHURE V15 Type IVをType IIIの交換針で聴く - AC3000MCのストレートアームを復活

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山本音響工芸のツゲ材ヘッドシェルに取り付けて聴いていたShure V15 Type IV、どうもJICO製の楕円針が寿命なのか、最近音の伸びいまひとつ。Type IV用にJICOのSAS針を注文しようかとも考えたが、それも当たり前過ぎるしな....と考えて時間が過ぎていたところで、ターンテーブルシートをアコースティックリバイブのものにして、銅板シートと重量級スタビライザーをやめたりとプレーヤの周りもいろいろ変わってきているので、もう一度AC3000MCのストレートアームを使ってみようか、という考えが浮かんできた。ストレートアームならハイコンプライアンスのカートリッジ向きなので、Shure V15 Type IVを取り付けてみたところ、これがなかなか良かった。

Type IVにType IIIのS楕円針を取り付ける

まずType IVをストレートアーム取り付けて聴いてみたところ、ストレートアームならではの正確な表現というか曖昧なところがない。プレーヤーやアナログ周りの調整も進んでいるので、1年前よりはずっと音もよい。ただ針のせいなのか、今ひとつ音楽に躍動感がない感じがする。

そういえば、本来Type IVは楕円針のみの仕様だが、Type IIIの交換針が使えるという記事があったのを思い出したので試しにやってみることに。まずは、これもJICO製のTypeIII用のS楕円針があったのでType IVに取り付けてみる。交換針を入れる角度に注意すれば、ボディ幅が同じようでピッタリと収まりがたつきもない。

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この写真の左がブラシがついたType IV用で、右がType III用のS楕円交換針。形状や幅は同じなことがわかる。

針を取り付けたら、針圧1gに調整してレコードを再生してみる。

音楽を品良くまとめて聴かせるS楕円針

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同じ針をType IIIで聴いていたときよりも弦楽器に艶があり、コントラバスなどの低音もしっかりしている気がする。分解能が高いのはストレートアームの効果なんだろう。再生音の品が良く、音楽的に上手くまとまっている。音楽の熱度はType IIIが勝るが、Type IVが軟弱ということではない。音楽に芯があり出音に花があり、音楽性も悪くない。

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ECM系はどれもいいが、アルヴォ・ペルトの『受難曲』のようにテーマが深いものでも、暗く落とし込むのではく、むしろコーラスやアンサンブルに浄化された力がある。SHUREのカートリッジは米国製のカラーなので総じて音色は明るい。それが僕がSHUREが好きなポイントなのかも。暗い音楽は好きだが、それを暗黒化するのではなく、そこからの光へ向かうような方向が。

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このクセナキスのアルバムは、70年代後半に日本コロンビアから1500円で出ていた現代音楽シリーズの1枚。カバーデザインシンプルには黒地に銀文字で統一されていた。このレコードは優秀録音で、楽器の分離はもちろん、余韻や前後左右の定位も広く、クセナキスの音楽の特性がよく理解できる。良い録音は作品への理解を深める典型例。クセナキスの音楽の美的側面が伝わってくる。

メリハリをつけた再生音の丸針

以前書いたようにType IIIには丸針もある。Type IVは本来楕円針の組み合わせだが、丸針も試してみる。S楕円針と比べると高域の伸びや抜けは控えめになるが、その肉厚な音になる。

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ブルースギタリスト Roy Buchanan のポリドールからの1枚目。このレコードは彼のポートレートと名前のフォントによるシンプルなデザインが印象的。このカバーだけで音楽が聴こえてきそう。これはAB面の組み合わせの問題なのか何故かB面のみStering 刻印のある米国盤で、確かにB面は音がいい。このB面はサイケデリックなところもあって「ピーターのブルース」や「メシアが再び」でのギターは単なるブルースとはちよっと違う。Type IVで聴くとそうした面が強く出る。M44Gだともっとブルースっぽい。

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Pere Ubuの1978年のデビューアルバム「Modern Dance」。米国インダストリアルロック、アバンギャルドロックのトップランナー。おそらく低予算のレコーディングだったと思われるが、それが幸いして音の鮮度が高い。大きな音で再生するとバンドが目の前で演奏しているようなリアリティがある。 時おり頭の中が爆発するような音楽。

緻密な世界となるSHURE純正MR針

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これは最近手に入れた TypeIII用のSHURE純正のMR(マイクロリッジ)交換針。MR針は針先が微小曲率半径となっていて、レコードの溝の深くまで入り溝の状態を正確にトレースする能力を備えている。JICOだとSAS針がこのクラスに相当する。

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Tangerine Dreamの3枚目のアルバム「Atem」のOhrオリジナル盤。このリリースの後でグループは当時新興レーベルだったVirginレーベルに移籍して「Phedra」のリリースでグローバルに注目を集めることになる。この「Atem」でメロトロンがメロディラインを担い、シンセサイザー、シーケンサーがビートとリズムで空間を埋めるというスタイルが確立され、Stratosphereまで続いていく。音質的にはA面全体を占めるタイトル曲の『Atem』がいい。音の霧が部屋の中にただよってくる。

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「MOHAWK」はNew York Art Quartetによる1965年の録音。フリージャズといってもパワープレイが激突するような演奏ではなく、アンサンブルの絡みの妙に耳が向く。特に Milford Gravesのドラムは圧巻。これ見よがしなプレイはまったく感じさせずに、非常に複雑なリズムを生み出している。MR針での再生音はリアルであるだけでなく、音楽の内面が伝わってくる。これを聴いてしまうと、すぐには最初のS楕円針には戻れない。

純正楕円針がついた初期型のV15 TypeIIIを手に入れてから感じていることなのだが、SHUREのカートリッジは純正の針で聴かないと分からないところがある。JICOの互換針も頑張っているというか悪いものではなく、それだけを聴いていれば解像度もあり出音もいいものだが、やはり音楽的なまとまりや表現力では純正針が優っている。JICOで最近シリーズ化されたジャス喫茶「ベイシー」監修の針だとまた違うのだろうか?

SHURE V15 Type IVがお気にりになってきた

ここ数日、ずっとType IVにTypeIIIの交換針で聴いていると、どんどんこのカートリッジが心地良くなってきて、「このレコードはどんな感じに聴こえるのか?」と次々にターンテーブルにのせていって際限がない。僕の好みがこの機種違いの交換針の組み合わせにぴったりハマったのだろうか。M75EBやM44Gの前に押し寄せるようなチカラのある音も魅力的なのだが、Type IVの品の良い音楽的なまとまりが、今の自分にフィットしているのかもしれない。カートリッジが決まると、聴く音楽の種類も特定の方向にまとまっていくが、それが面白かったりする。

今はこうでも、しばらくしたらM75EBでパンクばかり聴く別の自分がいるかもしれないし....。

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Arushi Jain, Six Organs of Admittance, William Parker, Laraaji Alan Vega - 最近、AppleMusicで聴いているもの

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Apple Musicがロスレス配信になってから仕事中によく鳴らしている。仕事をしながらなのでそんなに真剣に聴いているわけではないが、それでもその音にはっとするような瞬間がある。最近リリースされたものばかりではないが、そんな中からいくつかを。

Arushi Jain / Under the Lilac Sky

Arushi Jainはインド系で米国在住のモジュラー・シンセサイザー奏者。自らのインド音楽のルーツを再解釈しているということだが、そんなに極端にラーガっぽいわけではない。テリー・ライリーと比較する記事もあるがそれほど複雑で深いものではく、むしろその音楽の単純さや明るさが魅力となっている。Suzanne Cianiをはじめモジュラー・シンセサイザーの音楽は音のレイヤーが多重的なものが多いが、それとは違う独自の方向性。非常に穏やかで彼女のボーカルが入っているトラックは、以前紹介したJulianna Barwickに近いものがある。

Six Organs of Admittance / The Veiled Sea

「ディスカホリックによる音楽夜話 」で紹介されたアルバム。僕は初めて耳にしたけど 「Six Organs of Admittance」は1998年から続いている米国人ギタリスト Ben Chasnyのプロジェクト名。アンビエントドローンな曲もあるが、エレクトリックギターはアグレッシブでアバンギャルド、Sonny Sharlockを彷彿とさせるところもある。9分を超える『Last Starion, Vieled Sea(最後の駅、ベールで覆われた見えない海)』の大声で嗚咽するような痙攣的なギターから最後の独Faustのカバー『J'ai Mal Aux Dents(歯が痛い)』の流れがこのアルバムのハイライト。このアルバムを知ったのは大きな収穫。

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William Parker / Mayan Space Station

久々のジャズロックの快作。William Parkerは1952年生まれのフリージャズベーシスト。この『Mayan Space Station(マヤ宇宙ステーション)』は、彼のウッドベースがぶんぶんうなり、Gerald CleaverのTonny Williamsばりのドラム、女性エクスペリメンタル、フリージャズギタリストのAva Mendozaの豪快なプレイを堪能できる。アナログ盤もあるのだが、残念ながら長尺の2曲がカットされている。LP2枚組にしても全曲入れて欲しかった。

同一メンバーでのライブ映像もいい。


www.youtube.com

Laraaji / Flow Goes The Universe

Laraajiは1943年生まれ米国人でチターやマリンバ、キーボードにエフェクト処理をして演奏する。彼が公園で民族楽器をエフェクターを通して演奏しているのを通りがかった Brian Eno
がスカウトしてEnoのアンビエントシリーズでデビューするという経歴を持つ。多作家で正直アルバムによってかなり雰囲気が変わるのだが、この1992年のアルバム「Flow Goes The Universe」はSylvian&FrippのメンバーでもあったMichael Brookがプロデュースしており、Laraajiの民族音楽的な要素とアンビエント的な要素がうまく洗練されてブレンドされている。瞑想的なところもあるがヨガのBGMにされそうなニューエイジでなくシリアスなところがある。最近アナログでの再発売もあったようだ。

Alan Vega / After Dark

深夜にこれを聴くことが最近多い。Alan Vega(1938-2016)は、ニューヨークのエレクトロパンクユニット、Suicideのボーカリストとして現れた。ボーカリストにはその人の生き様がそのまま声になって、「あ〜っ」とか「うっ」と声を発しただけで空間を変容する人がいるが、Alan Vegaはまさしくそのタイプ。一度彼の声を聴いたら忘れることがない。昔、Iggy Pop & the Stoogiesのアルバムの邦題に『淫力魔神』というのがあったが、Alan Vegaこそその名称に相応しいかもしれない。
Alan Vegaは、ある意味、ロックンロール、ロカビリースタイルの正当な継承者でありながら、同時に絶えずそれから逸脱しようと試み続けることで異化作用を生み出す触媒であり続けた。この『After Dark』は、亡くなる前年の2015年に録音されたもので、一晩のセッションで収録されたと言われている。ギター、ベース、ドラムにキーボードの標準的なバンドセット。ここでも「あの声」は健在。演奏も楽曲もミッドテンポからスローで、全体にリバーブが効いていて凄みがあり、キーボードやシンセサイザーの扱いはアブスラクトなドアーズ的で緊張感を与えている。冥府のロックンロール。これはぜひアナログ盤で聴きたい。

Under the Lilac Sky [ARTPL-157]

Under the Lilac Sky [ARTPL-157]

  • アーティスト:Arushi Jain
  • PLANCHA / Leaving Records
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After Dark

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Sunn O))) とオリビエ・メシアンの相関関係 - 響の中のメッセージに耳をすませる

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少し前に米国シアトル出身のドローンメタルバンド、Sunn O))) の2009年のアルバム『Monoliths & Dimensions』の2枚組アナログ盤の中古をたまたま見かけて購入して聴いたことから始まる。Sunn O))) が所謂メタルバンド的なフォーマットでもない(ドラムがいない)、演奏でもない(ステージの上にアンプを積み上げて、ギターでジャ〜ンとコードを弾いて、そのフィードバックが延々と続く)、そして轟音であることは知っていたが、実際にこのアルバムを聴いてみると単にギミックではなく、楽曲として作り込まれていることがわかる。

本作ではストリングスアンサンブル、金管アンサンブル、女性コーラスなども加わり、単なるメタルではく、もっと前衛音楽や現代音楽に近い。特にアリス・コルトレーンへのオマージュとなる最後の曲の『Alice』は浄化とか昇華(アセッション)を感じさせるものがある。この曲を聴いていた時にデジャヴ的に思い出したのがオリビエ・メシアンの音楽だった。時代もジャンルも全く異なるが、僕の中では何か共通するものがある。

オリビエ・メシアン - 神秘主義的な祈りの作曲家

オリビエ・メシアン(Olivier Messiaen 1908 - 1992) はフランスの現代音楽家、オルガニスト。メシアンがヴェーベルン、シュトックハウゼンやジョン・ケージ、リゲティなどの20世紀の作曲を比べて異色なのは、キリスト教への深い信仰心が全ての作品の根幹にあること。20世紀の音楽は「神」ではなく「人間」やその「社会」を中心的なテーマをしてきたに対して、このメシアンの資質は異色であり、神秘主義的でもある。それに、メシアンは野鳥の鳴き声を「採譜」してピアノ曲で鳥のカタログを作るなど自然派な一面も見せる。彼の作品には独自のリズムがあり、音階は色に結びつけれら音楽は色彩間に溢れている。


www.youtube.com - Troia petites liturgies de la presence divine - 神の降臨のための3つの小典礼


www.youtube.com - オルガン曲 l'Ascension - キリストの昇天(部分)

Sunn O))) - 音の雲を生み出す

Sunn O)))は、1998年に結成。中心メンバーのStephen O'Malleyは、ヨーロッパでは作曲家、パフォーマーとしての評価が高いようで、様々な形で彼の作品が演奏されている。Sunn O)))の音楽にも独自のリズムがあって、じゃーんとギターを弾いたらアンプの前に高く掲げてフィードバックを引き伸ばすが、その音を長い時間聴いているとデタラメに弾いているのではなく曲ごとに構成が理解できてくる。またライブではステージが見えないほどの大量のスモークがたかれ、そこのカラフルなライトが照射される。音的にも視覚的にも濃い霧や雲のようなものを出現される。ただ、彼等がライブでベネディクト派のような僧衣を着ている理由は不明。それにも神秘主義的なものが関連しているのだろうか?


www.youtube.com - Sunn O)))の2019年のライブ。最後に女性ボーカル、バイオリンなどがアンサンブルに加わる。


www.youtube.com - ジュニアのアンサンブルと共演(2011年)


www.youtube.com - Stephen O'Malleyの作品のオーケストラアレンジ版(2015年)

空間が変容していくのを見つめるような

本来、音楽は予備知識なくまずは実際に耳を傾け、その体験を通して理解するものだが、このオリビエ・メシアンやSunn O)))の音楽はとくに注意深く聴くことを聴き手に求めているような気がする。もちろん漠然とその音響に身を委ねてしまってもいいのだが、ずっと注意深く聴くことで、その響(ひびき)の細部がより明確に浮かび上がり、それは混沌としてあるのではなく、その構造への理解が深まり、その中ですっと音楽が自分の中に入ってくる瞬間がある。 その音楽の響きが空間を変容していくのをじっと見つめているような、時間感覚が変化していく。音が鳴っているだけなのに、光や色を感じる。

オリビエ・メシアンでは、パイプオルガンの一連の作品、特にこの「聖なる三位一体の神秘への瞑想」ではアルファベットに音階を割り当て、天使の言でコミュニケーションし、キリストのビジョンを得ようと試み、巨大なパイプオルガンがその全音域の能力で聴くものにビジョンを伝達する。このアルバムはメシアン本人の演奏。残念なことにApple Musicにはこの自演の演奏がない。

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Sunn O)))では、2019年リリースの「Life Metal」。このタイトルの元は北欧のバンド同士で「お前達はデスメタルではない、”ライフメタル”だ」と揶揄したことに起因しているが、Stephen O'Malley曰く、「Life Metalという言葉は自分たちの音楽に一端に通じる」ということでアルバムタイトルになったようだ。Sunn O)))のアルバムとしては有機的で、ムーグやバイオリン、女性ボーカルも参加し、アルバムカバーにも通じる美的なビジョン(幻界)をスピーカーの前に出現させる。

音楽なのか非音楽なのか

この種の前衛、アバンギャルになると、その音楽に対しての価値観や評価が大きく別れる。「音楽なのか非音楽なのか」という問いになるし、そもそもそうした存在の音楽は「音楽として語るべきものなのか? 」という疑問も呈される。

聴き手としての自分の立ち位置はシンプルでありたいと思っていて、作り手が側がどんな混沌であっても「音楽」として、その理解を伝えようとしていたり、聴き手を揺さぶって意識の底に沈澱しているものを意識の上に浮かび上がらせようとするなら音楽として受け入れる。

その音楽を聴く前と聴いた後で自分はどう変わったのだろうか?

Arte Concert - 様々な音楽が、様々なアーティストから生まれくることを目撃する

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普段はあまりYouTubeを見ないのだけど、偶然この「arte concert」 というライブシリーズを見て、どれも刺激的で啓発されるものがあった。調べてみると、arte.tv というEUのファンディングを受けている組織の文化事業のようで、アートやフィルムの他、オペラやオーケストラのクラシックからジャズ、フリージャズ、パンク、ポストロック、ヘヴィメタルまであらゆる音楽ジャンルをカバーしている。

その中で幾つか、特に強く印象に残ったものを。

Kim Gordenのソロ - 実験精神とメッセージは健在

Sonic Youthの創設メンバーでギターのThurston Mooreと離婚後ソロに転向。僕より少し年上で66歳。ロックをロックとしないアバンギャルドで野心的なエクスペリメンタルスピリットと一度聴いたら忘れない物憂げでハスキーな声は健在。それにバックの若手の演奏が素晴らしい。特にギターの彼女のエッジーでノイジーな演奏に耳をわしづかみにされる。

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Black Country, New Road - フリーなようで音楽的に充実

2018年にデビューした英国の若手グループ。ジャンル的にはエクスペリメンタルロックとかポストロックとかになるのだろうが、その枠に収まらない魅力がある。サックスやバイオリンも入っていて、フリージャズ的なアンサンブルも聴かせるが、全てがフリーではなくて、キッチリと計算されている。特にドラムが繰り出す変則的なリズムが楽曲の要になっている。

ボーカルは歌というよりもトーキングスタイルだが個性的。何かに似ていると思ったら、声や歌い方がジョナサン・リッチマンにすごく似ている。偶然だろうが。アルバムも聴いてみたが、このライブの方がダイナミックでいい。今後の注目株。

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MAGMA - M.D.K - 絶えず自らを革新する普遍性

MAGMAは結成50周年を超えた古参のフレンチ・プログレグループ。自らを惑星コバイヤから来た、滅びに向かう地球を救済する者たちと定義している。なので歌われる歌詞も全て独自のコバイヤ語で書かれている。音楽的、思想的リーダーでドラムのクリスチャン・バンデールはジャズと軍楽隊のマーチのような音楽からの影響があるようで非常に重いリズムを持ち、ボーカルは男女混成6名で、高揚感のあるコーラスを聴かせる。

長いキャリアの中ではマンネリ化した時期もあったが、このビデオで久しぶりに見て、新しいメンバーを加えてフレッシュなパフォーマンスを堪能できた。MDK(Mekanïk Destruktïẁ Kommandöh - Mechanic Destruction Commander の意味?)は1973年にリリースされた彼らの代表的な作品。単に昔の作品をなぞるのではなく、今の時代にそれを問う、re:inventされた演奏が聴ける。それに、歳を重ねたメンバーが皆んな、振る舞いも来ているものもオシャレなのは、フランス人だからだろうか? 自分もこうありたい ;-)

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Brad Mehldau - ポスト・キースジャレットのピアニスト

キース・ジャレットが脳梗塞の後遺症で引退してしまった今、そのポジションを埋めることができるのが、この1970年生まれの米国人ピアニスト、Brad Mehldauではないか思っている。その彼のソロピアノのパフォーマンス。この人も所謂ジャズ的な枠の中だけに止まらず、Steve Reichなどのミニマリズムを取り上げたり、かなり前衛的な演奏も聴かせたりするが、その中を自由に行き来するバランス感覚に優れている。

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Sleaford Mods - モノドラマを見ているかのよう

ボーカルのJason WilliamsonとラップトップPCのプログラミングのAndrew Fearnの二人組。この種のボーカルとリズムやシンセの二人組ユニットは、ニューヨークパンク期のSuicide、ジャーマンニューウェーブのD.A.F.など過去にもあって、それぞれユニークな存在だが、Sleaford Mods の二人も個性的。Jasonの真剣なボーカルパフォーマンスのバックでAndrewはただただ曲のスタートでラップトップのキーを押して、後はブラブラら踊ってビールを飲んでいるだけのラフな印象があるが、よく耳をすませればそれが計算されたものであることがわかる。バックビートにあれだけの歌詞がピタッと音楽にはまるには、二人でかなりトレーニングやリハーサルを入念にしているだろう。

Jasonのボーカルスタイルはラップではなく、むしろポエトリーリーディングやモノローグの一人芝居に近い。ワーキングクラスのアクセントが強く、スラングも多いので歌詞の意味は半分も理解できないが、その姿にシェークスピアからの英国の演劇の伝統を感じる。歌詞と音楽がその場で実体化していくパワーがある。

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(*この映像は埋め込みが禁止されているのでYouTubeのサイトで再生ください。)

Ostgut Ton aus der Halle am Berghain - Halle - ARTE Concert

ベルリンのエレクトロニカレーベル「Ostgut Ton」に所属する以下のアンビエント、エクスペリメント アーティスト/DJによる4時間に及ぶパフォーマンス。

  • Phillip Sollmann x Oren Ambarchi x Konrad Sprenger
  • Luke Slater x KMRU x Speedy J
  • Barker x Baumecker
  • Jessica Ekomane x Zoë Mc Pherson
  • Tobias. x Max Loderbauer
  • Terence Fixmer x Phase Fatale

無人の古い廃墟ようなビルで収録されており、空間アンビエンスがその音楽に豊かな響きを加えている。

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*****

久しぶりにライブの映像をまとめて見た。ミュージシャンだけでなく、映像も演出もアーティスティックでクリエイティブでいい。音楽はそうやって発展して継承されていくのだろう。

Tangerine Dream / The Sessions II & III - 誰もいなくなってもグループ名は残り、そしてスピリットが継承された

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Tangerine Dreamの創設者でその精神的、音楽的中核でもあったEdgar Froseが亡くなったのが2015年。もうグループは活動停止だろうと思っていたら残った3人のメンバーで復活。その新生Tangerine Dreamのインプロビゼーションの演奏だけを集めたライブ音源シリーズ「The Sessions II」と「The Sessions III」のアナログ盤がセール価格だったので興味本位で手に入れたら、これが予想以上に良かったので、その話を。

Tangerine Dreamが当時の西ベルリンでデビューしたのは1967年。最初はサイケデリックロックを聞かせるグループだったが、それがフリージャズや現代音楽の影響を受けて、アバンギャルドな演奏スタイルとなってデビューアルバム『Electronic Meditation』に結実する。

その後の1970年代前半はステージに大量のシンセサイザー、シーケンサーを持ち込み、ほとんどインプロビゼーション主体のパフォーマンスを行うエレクトロニカのパイオアニアとなった。1990年以降は創設メンバーのEdgar Froseが残り、複数のシンセサイザー奏者、女性パーカッション、エレクトリックギター、サックスまで加わり、ダンサンサブルなエレクトロニックミュージックへと方向転換し、商業的にも大きな成功を収める。

主張するもの浴びせかけるのではなく聴き手に委ねる音楽

僕が初めて買ったタンジェリンドリームのレコードはセカンドアルバムの「アルファケンタウリ」。素朴な電子音にオルガン、ドラム、フルートによる演奏で、デカルコマニーの手法でデザインされたカバーそのものの音楽だった。

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タンジェリンドリームの音楽には、この種の音楽としては珍しく、聴き手をある枠の中に閉じ込めてその音楽の主張するもの浴びせかけるようなことをしない、おおらかなところがあるのが魅力。70年代の「Atem」「Phaedra」「Rubycon」「Stratosphere」の時代も音質的にも低音がブンブン唸っていたり、金切音のような突き刺さる高音のシンセはなく、メロトロンも多用されて中域に音が集まっているミッドレンジ中心のサウンドが心地よい。その音楽を聴き手に委ねるようなところがある。80年代、90年代以降になって音楽性は変わってもそうしたアプローチは変わらず、それが多分、ずっと彼らの音楽を聴き続けてきた理由なのだと思う。

過去の繰り返ししない

Edgar Frose率いる後期のタンジェリンドリームにあっても過去の単純な繰り返しはしないところも好きだった。絶えず新しいアルバムをリリースし、正直、中には陳腐に思えるものもあったが、それでも昔の作品をそのまま繰り返したりはしなかった。過去の作品を再演するときでも、それはレパートリーの中核ではなく、ライブ全体の流れの中でかなり大胆に手を加えて演奏されていた。

それで、この新生タンジェリンドリームがどうかというと、僕の最初の印象はあまり良くなかった。メンバーは、最後のメンバーだったThorsten Quaeschning、Ulrich Schnauss、日本人バイオリニストの山根星子の3人。どうしてもオールドファンに対するサービスが必要なのか、前記した70年代のアルバムの曲の再演を含むアルバムをリリースしたりライブで演奏したりする。それがオリジナルに近く悪い演奏ではないが、80年代に生まれた彼等がその過去の繰り返しをやる必然性が感じられなかった。タンジェリンドリームの存在意味はそれではないというか …。

大切なのは、そのスピリットを引き継ぐこと

この2セットのインプロビゼーションライブをアナログ盤で聴いて、そうした不満は解消した。ライブで3人が呼応しながら、その時間の流れの中でスポンティニアスに音楽が形成されていく、そのリアルタイムなコラボレーションに委ねるスピリットこそ、タンジェリンドリームが他のエレクトロニックグループから際立たせているものだ。

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この『The Sessions』シリーズは 2017年の「I」 から2020年の「VI」までリリースされている。このレコード以外のものもAppleMusicでも聴いてみたが、『The Sessions II』の前半は特に印象的で、山根星子のバイオリンが中心にあり、ベルクのバイオリン協奏曲を感じさせるようなところもある。そうした演奏こそTangerine Dreamの名前に相応しい。創設メンバーも、往年の中核メンバーも、もう誰もいないのに、グループの名前とそのスピリットが引き継がれた稀なケースなのかもしれない。

多くの「50周年記念」を迎えたグループが、ライブで昔の人気作品を繰り返し演奏するだけの存在になってしまった中、タンジェリンドリームには過去を繰り返すのでなく、新しい音楽を生み出せる存在であってほしい。

人はいつでも未来に向かって生きていくのだから。

参考リンク:山根星子のタンジェリンドリームへの加入経緯は、以下のインタビューで詳しく語られている。

qetic.jp

Sessions II

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Sessions 3

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