Sound & Silence

本多重夫の音楽、オーディオ、アートなどについてのプライベートブログ

密やかな結晶 / 小川洋子 - 小部屋から見える世界

f:id:shigeohonda:20200709123827j:plain 

僕はこの小川洋子という作家のことをほとんど知らない。以前、芥川賞を受賞した作品があるらしい。それでもこの1994年に出版された「密やかな結晶」に興味をもったきっかけは、今年海外で出版された本書の英訳版が好評で、ヨーロッパで映画化の話が出ているという記事を見かけたことによる。

英語版のタイトルは「The Memory Police: A Novel(記憶警察:小説)」という味気ないもので、カフカ風のディストピアSF小説という解釈になっているようだ。 それでも、この小説に描かれた不条理の世界観が今の現実とオーバーラップするような既視感があるのも確かで、その辺りが海外でも受け入れられているのかもしれない。事実、各国で賞を受賞されている。

それに、小川洋子の書く言葉は、もって回ったこけおどしなようなものは一つもなく、描かれている世界の悲壮さとは一定の距離を置いた落ち着いた平易な文章となっているのも、英語の翻訳に向いているのだろう。books.google.comで一部を読むことができるが、原書そのままの平易な英語のテキストになっている。

大まかなストーリーは、外部と隔絶された島で島民は秘密警察に監視されて生活しており、理由は不明だが、「当局」は「あるもの」を次々に抹消していく。それは「鳥」だったり、「花」だったり、「香水」だったり様々なもので、いったん抹消されたら、それは存在しなことなったことになり、それらに関する記録やモノも根こそぎ抹消される。そして人々の記憶からも消滅していく。ただ、少数だが、抹消されたものが存在した記憶を持ち続ける人がいて、彼らは秘密警察に連れ去られていく。

このストーリーだと、G.オーウェルの『1984』やハクスリーの『すばらしき新世界』、本の存在が抹消され焚書が行われるシーンはのレイ・ブラッドベリの『華氏451度』などといったディストピア小説を彷彿とさせる。しかし、この本を読む体験はそうした本とは全く異なる。

この島に住む作家の若い女性を通して淡々と語られるトーンが、起きていることの不条理さ、悲惨さを際立たせているようでありながら、読み手は彼女を通して「あり得ない日常」が「いつもの日常」への転換されていく不条理さをなんの抵抗もなく受けれてしまっていることに気がつく。それは僕らがこの半年の変化を、抵抗もなく受け入れてしまっている現実にも通じているようにも感じる。 それに、作中の作家の女性が書く、声を失ってタイプライターでローマ字を打って恋人と会話する物語が、重い影を残していく。

本書について小川洋子は「アンネの日記へのオマージュ」ということを語っているが、アンネは隠れ宿となった小部屋から外の理不尽で不条理な世界を見つめていた。この本の世界は、僕らがアンネのように小部屋から見ている世界なのか。それとも部屋から出ると現実として立ち現れる世界なのだろうか。

参考リンク books.google.com

密やかな結晶 (講談社文庫)

密やかな結晶 (講談社文庫)

  • 作者:小川洋子
  • 発売日: 2013/11/22
  • メディア: Kindle版


© 2019 Shigeo Honda, All rights reserved. - 本ブログの無断転載はご遠慮ください。記事に掲載の名称や製品名などの固有名詞は各企業、各組織の商標または登録商標です。