Sound & Silence

本多重夫の音楽、オーディオ、アートなどについてのプライベートブログ

オリヴァー・サックス / 音楽嗜好症 - 脳と音楽の物語

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著者のオリヴァー・サックス(1933-2015)は英国出身の脳神経科医で研究者。自分の患者の様々な症例から脳についての話を論文調ではなく、一般にも分かりやすく紹介し、理解を深めるような啓蒙書を多数執筆している。中でも映画の題材にもなった重いパーキンソン病患者の一時的な回復に触れた「レナードの朝」が知られている。

この本は2007年に出版されたもので、脳や脳の障害と音楽の関わりをテーマに色々な症例が挙げられる。 冒頭では落雷のショックを受けた外科医が突然音楽にのめり込むようになり、離婚されてもピアノの演奏と作曲に勤しみ。人前で演奏するまでになる話がユーモアに描かれているが、残りの症例は正直あまり楽しいものばかりではない。

強度の耳鳴りが音楽の一部を脈絡なく繰り返し再生するようになり、まるで壊れたラジオかテープレコーダーが耳の中にあるような状態になるケースは痛ましい。その一方で音楽療法で一時的な(本当に短時間ながら)正常な状態を得られる症例は興味深い。パーキンソン病やチック症など、神経系の運動障害がある時でも、音楽がかかると歩けるようになったり、その不連続な動作が一時的にでも緩和することができる。事故や脳卒中などで言語が思うように操れなくなっても、メロディに乗せて「歌う」と言葉が続いて「会話」が成立すというのは興味深い。メロデイが言葉をつなぐ補助輪の役目をしてくれる。

総合失調症や自閉症の場合、音楽は特別な役割を果たす。音楽に特別な才能を表すことがあり、すぐれた演奏を聴かせたり驚くべき作曲能力を発揮することがある。中にはプロのミュージシャンとして生活するまでになることもあるが、演奏が終わるとまた通常の症状に戻ってしまうだけというのは切ない。音楽があるときだけ、カラフルな世界があるのに、音楽が終わってしまうと元の暗闇の世界に帰っていく。

音楽というと「右脳のもの」という先入観があるが、この著者は音楽が脳に与えている影響、逆に脳が音楽を扱う領域はもっと脳の広範囲に及んでいることを示している。それは、リズムが四肢の運動に、メロディが言語に影響を与えることから感情や人間としてのアイデンティティというデリケートなものまで、様々な症例からも明らかにされてくる。

本書の最後に80歳を超えたアルツハイマーのコンサートピアニストの話が出てくる。もう会話も困難になっているが、それでも演奏することができ、むしろその音楽は深みを増していく。彼の最後のコンサートは満員の聴衆で、周りも心配するように自分がどこに何のためにいるかも理解しているのは定かではないが、いったん演奏が始まるとそれは素晴らしいく、最後まで止まることはなかった。記憶や言葉を失うことが、その人と音楽の関係をより高めていったのだとしたら、それは人間、また脳の無限の可能性を示してはいないだろうか。


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