Sound & Silence

本多重夫の音楽、オーディオ、アートなどについてのプライベートブログ

レコードは風景をだいなしにする / ディヴィド・クラプス著 - それならストリーミングは風景を破壊するだろう

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著者は1967年生まれ。ニューヨーク在住。ニューヨーク市立大学准教授。ジム・オルークとガスター・デル・ソルで活躍、現在はソロ活動と自身のレーベルを主催している。本書のオリジナルタイトルは「Records ruin the landscape - John Cage, the sixties and sound recordings」というもので2014年に出版されている。

話の中心となるのは1960年代以降のジョン・ケージのチャンスオペレーション、偶然性による音楽やデレク・ベイリーのような完全なフリーインプロビゼーションの音楽とレコード(CDも)のとの関係性になる。それは、60年代の前衛音楽、レコードからインターネット上のアーカイブまで、前衛音楽家やフリーインプロバイザーと録音、レコードのアンビバレンツな関係を炙り出していくことになる。

否定されるレコードの存在

本書にタイトルにあるように、ジョン・ケージはレコードを蔑視していた。

  • 「レコードは風景をだいなしにする」
  • 「人の真の音楽への欲求を破壊するし、ひとを実際には音楽活動に関与していないのにしているように思わせる」
  • 「録音はかまわない、あのクソみたいなレコードのためでなければ」

さらにケージには現代音楽家にありがちな、他のジャンル(特にソウルやポップやロックなどの大衆音楽)をひどく見下すところがある。つまり彼にとっては「レコードという存在」は卑下すべき俗物的な存在だったのだろう。

フリー・インプロバイザーのデレク・ベイリーにとっては、レコードが「繰り返し聴かれる存在」であることが我慢ならなかったらしい。

  • 「人々の音楽聴取はみんなレコードを中心にしている。しかし、レコードとは結局のところ終わったゲームなのさ。私にとってそもそもレコードとは終わったゲームでないものを、終わったゲームしてしまうようなものさ。」
  • 「レコードの意義が何度も繰り返し聴くことができる点にあるなら、それはいずれムード音楽のようなものになるのではないか?」

しかし彼らはレコードなしでは立ち行かない

しかし、彼らは皮肉なことにレコードという商業媒体を最大限に利用して権威を得て有名になっていく。それは美術館を否定しても作品が美術館に収録されることで社会的な権威を得る画家と同じ。

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ジョン・ケージはデヴィッド・チュードアをはじめとする演奏家を得て、次々と彼の偶然性の音楽や図形楽譜による音楽作品をレコードとして続々リリースする。米国の現代音楽カルチャーに関心が集まる中、CBSからの連続したリリースで彼は国際的な作曲家としての地位を確立していく。

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デレク・ベイリーなどのフリーインプロバイザー達はインカス、FMPといった自分達のレーベルを興して、ライブパフォーマンスを中心にレコードをリリースし、それを通じて資金を得、より広いフリーミュージック愛好家にその演奏を知られるようになっていく。

それになんと言っても現代音楽愛好家、フリーミュージック愛好家は(僕もそうだが)レコードコレクターであり、たくさんレコードを買ってくれるのだ。

繰り返し聴かれることは悪なのか?

デレク・ベイリーは、こうも言う。

「もし、あなたがあるレコードを一度しかかけられないとしたら、その聴取にかける強度はいかんばかりだろう?」

言いたいことは分かるが、レコードというモノの存在はそうではない。演奏したアーティストよりも長く残る残酷なものでもある。

僕は、ジム・オルークの言う、

「こうした音楽はレコードで聴きたい。一度に全てを理解することは不可能で何度も繰り返し聴くことで細部が理解できるようになる」

という意見に同意する。繰り返し聴けること、本を繰り返し読むように、その中に繰り返し入って新しい発見があることが重要だと考える。それは演奏家にとっては「一度の演奏」だが、聴き手にとっては毎回新しい出会いとなるものがある。

そして最初は理解困難と思われたものを繰り返し聴くことで慣れていき、自分なりの解釈で聴けるようになっていく。それを、「ムード音楽のようなものになるのではないか?」と指摘するのあれば、それは「その音楽の強度による」と僕は答えたい。例えばバッハの音楽は、病院であれ、カフェであれ、どんなところで聞こえてきても「ムード音楽」にならず気品を失わなないのは、その作品の「強度」が高いからではないのか。

インターネット上にないものは存在しないも同じ

本書ではインターネット上の現代音楽、フリーミュージックのアーカイブについて触れている。僕も知らなかったが、60年代、70年代の多くの音源を聴くことができる。

ARCHIVE.ORG
音楽だけでなく様々な情報のアーカイブ拠点となっている。

archive.org

DRAM
有償の実験音楽、実験的インターメディアのプラットフォーム

dramonline.org

UbuWeb
中でも一番ラジカルなのがこのUbuWebだろう。膨大な前衛音楽、パフォーマンスのアーカイブでありながら徹底したアマチュアリズムの精神で許諾を得ずに品質を問わずにアーカイブされ、だれでも聴くことができる。

ubu.com

これだけ集められていれば本書での指摘のように「インターネット上にないものは存在しないも同じ」ことなのだろう。

ストリーミングは風景を破壊してしまう。

本書はここで終わっていて、その後普及したストリーミングによる音楽体験には触れられていない。

ストリーミングの最も大きな影響は一定額でサブスクリプションすれば収録されている全てのあらゆる音楽が等価に提供されること。なのでヒップホップも聴けば、シェーンベルクやジョン・コルトレーンも聴くというリスナーが簡単に誕生する。それはジャンルから開かれた聴き手という新しい存在。しかしそれは、刹那的な組み合わせでしかない可能性もある

また一方で全ては「プレイリスト」に依存する。プレイリストに含まれなかった音楽はもう出会うことはない。レコードのように繰り返し聴かれる可能性も大きく低下する。つまり、「一度しか聴かれない」可能性が高くなる。でもそこに「強度」のある聴取はない。タッチひとつでなんとなく選ばれたプレイリストは全てを「ムード音楽」にしてしまう危険がある。

レコードが風景をだいなしにしたのなら、ストリーミングは風景を破壊してしまうのだろう。

それはソーシャルメディアが人の出会いを等価にしてしまい人の関係性の風景を破壊しつつあるのに共通しているのかもしれない。


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