ピーター・ゼルキンのこと
ピーター・ゼルキン(Peter Adolf Serkin 1947-2020)は米国のピアニストで父親のルドルフ・ゼルキンも著名なピアニスト。グレン・グールド(1932 - 1982)よりも一世代若い。ともに米国人のピアニストらしく、ヨーロッパの伝統の呪縛から離れたみずみずしい音楽を聴かせてくれる。特にピアノの音色の明るさ、透明感にはピーター・ゼルキンならではの魅力がある。
それに、ピーター・ゼルキンはグレン・グールドほど変わり者ではなく、レコーディングだけでなくコンサートも多い。18歳のときのデビューアルバムが『ゴールドベルグ変奏曲』なのはグールドの例にならって話題作りをしようとしたレコード会社の戦略だったのだろうか?
僕がピーター・ゼルキンを意識したのは70年代に入ってから。FM放送で何枚かのアルバムをエアチェックして聴いたり、アンサンブル「タッシ(Tashi)」がオリビエ・メシアンが収容所で作曲したという『世の終わりのための弦楽四重奏』を演奏したレコードを通してだった。アルバムカバーのメンバー全員がクラシック音楽家らしからぬヒッピーぽいスタイルで新しい時代を感じさせてくれた。
RCAレーベルからの全リリース、34枚組のBOXセット
僕は2020年にピーター・ゼルキンが73歳で亡くなったことも、このBOXセットがリリースされたことも全く知らず、手元にあったバッハの録音を聴いていて他のCDを探していたときに偶然このBOXセットにたどり着いた。最初は34枚組というボリュームに躊躇したが、コロナ禍で自宅にほとんどいるし購入してみることに。僕が過去購入したBOXセットで最も枚数の多いことだけは間違いない。
このBOXセットは彼が亡くなったからリリースされた追悼盤ではなく、生前から予定されていたもの。付属の解説を読むと、ピーターは当初、「全てがパーフェクトな演奏ではない」という理由でこの全集に乗り気でなく、何枚かを除外しようとしていたようだ。しかし録音を再度聴くうちに、完全ではないがそれぞれ魅力あることに気がついて考えを変えたようで、RCA、コロンビアの録音がセットに復刻されることなった。本来ならリリースに際してピーター本人がエッセイを執筆する予定だったが、癌の進行がそれを許さず、ブックレットには最後の電子メールが掲載さている。
このBOXセットが素晴らしいのは、アナログレコードでリリースされた状態をジャケットを含めCDサイズで復元していること。さすがに小さくてジャケット裏のライナーノーツはルーペがないと読めないが、CDレーベル面は当時のレーベルがレコード風に印刷されているという凝りようで愛らしい形をしている。2枚組はダブルジャケットになっているのだが、糊付け位置が悪くCDがすごく取り出し難いのはご愛嬌。
よくCD全集だと曲がぎゅうぎゅうに詰め込まれて作品の第1楽章と第2楽章が生き別れとなることも少なくない中、きちんとレコード単位で復元されたことは嬉しいし、アーティストへの敬意を感じられる。
幅広いレパートリーを持ち、日本との関係も深い
ピーター・ゼルキンはレパートリーの幅が広いピアニストだった。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、シューベルトなどの古典、ロマン派から、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンの新ウィーン学派、メシアン、武満徹、ベリオ、ヘンツェの現代音楽まで取り上げる。それは「Tashi」でも同じで、元々は『世の終わりのための弦楽四重奏』を演奏するのアンサンブルだったが、シューベルトの「鱒」やストラビンスキー、ベートーヴェンも演奏している。
全体に共通しているのは「音色の美しさ」と「作品の音楽としての流れ」が極めて自然であること。変にドラマを作らないので自然過ぎて部分を切り取ると平坦な印象もなるかもしれないが、音楽通して聴いたときの説得力は大きい。古典・ロマン派であっても、現代音楽でも、どの曲も「ああ、そうした音楽だったのか」と発見があるし、彼の音楽に対する喜びが聴き手の心に伝わってくる。
BOXに入っているCDを見ていくと、日本との関係も深いことがわかる。1966年、19歳のときにレコーディングされたバルトークのピアノ協奏曲は当時シカゴ交響楽団を振っていた小澤征爾の指揮。同時に小澤征爾の指揮でシェーンベルクのピアノ協奏曲も録音している。相性がよかったのか後にはさらにベートーヴェンも。メシアンの「アーメンの幻視」では高橋悠二が共演をつとめる。1978年にはTashiで武満徹のだけの作品のアルバムをリリースしている。これも素晴らしい演奏で、静寂の中から淡い色合いの風景が立ち上がってくるようだ。
勝手な想像だが、ピーター・ゼルキンは「ハーモニーの響き」や「音が生み出す色彩」に高い関心があり、それがメシアンや武満徹に向かわせたのでないかと思う。その演奏の響きと色彩感はとても美しい。
ピーター・ゼルキンの音楽の旅を追体験する
34枚のCDを次々と聴いていくと、彼の音楽の旅を追体験しているような気になる。10代でゴールベルク変奏曲でデビューし、シューベルト、バッハで演奏家としての地位を確立したかと思えば、バルトーク、シェーンベルクといった現代作品も鮮やかに弾きこなす。70年代に入ると長髪に髭を蓄え、ジーンズ姿でTashiに参加、40代を過ぎても精力的にレコーディングし、1994年にはゴールベルク変奏曲を再度録音する。RCAでの最後のレコーディングは、1996年のベートーヴェンの「幻想」「月光」「熱情」。
この34枚のCDを1週間で聴き終えた後も、あれこれ取り出しては繰り返し聴いている。久しぶりにクラシックをまとめて聴いたが、聴いている時に「クラシックを聴いている」という気があまりしなかった。それは彼の演奏で解き放された音楽が翼をもって自由に羽ばたいていくのを見るような、そんな喜びがあるからだろう。

- アーティスト:Serkin, Peter
- 発売日: 2020/05/29
- メディア: CD