Sound & Silence

本多重夫の音楽、オーディオ、アートなどについてのプライベートブログ

ものがたり西洋音楽史 / 近藤 穣 - モダニズムの終焉と芸術音楽の終わり

f:id:shigeohonda:20211024115013j:plain

著者の近藤 穣(1947-)は、武満徹の1世代下にあたる作曲家で、音楽的な傾向は武満徹に似ているように思う。それは線形的な音楽でミニマリズムではないが、響きは洗練された美があり、聴き手が作品との距離を自由にできる余白がある。

また、近藤 穣は著作も多く、作曲家であると同時にかなりの音楽研究家でもあり古典から現代までの作品のスコアをかなり読み込んでいるようだ。ブーレーズやシノポリのように指揮者に転向しても才能を発揮したかもしれない。1970年代に「線の音楽」が彼の最初のアルバムで、コジマ録音から発売になり、同名の著書も発売されていた。

本書「ものがたり西洋音楽史」は、2020年に岩波ジュニア文庫の1冊として発売されたもので、アマゾンのレビューでは「ジュニア文庫としては難し過ぎる」と指摘されたりしているが、ジュニア文庫だからと言ってレベルを下げる必要はないだろう。中学、高校生なら十分に大人向けの一般書籍や評論で読んで理解できるわけで、むしろ大事なのは余分なバイアスを排除して体型的に理解できるように書くことにある。その点、本書はスコアへの深い洞察により整理されており、大人が読んでもクラシック音楽における西洋音楽史をよく理解できる。どうして音楽文化は変容したのか、社会、特に時の権力と音楽の関係がどう影響を与えたのかなど、これだけ平易な文書で説明されたものなく、得られることは多い。

歴史は現在に向かって直線的に発展するものではない

音楽史に限らず何かの歴史が語られるときに、往々にして「発展の歴史」として捉えがちだ。つまり、「Aよりもその後に来たB、さらに後のCが優れている」という考え方。著者はまずそうした視点に疑問を提示し、本性の位置が明確に示されている。

私たちに私たちの音楽文化があるように、過去の時代には、それぞれの時代にそれぞれの音楽と文化があります。それらの間には、当然、様々な関わりや共通性があるのですが、一つ一つはそれ自体の価値を持った独自な存在であって、決して「途中の段階」ではない。こうした見方に基づいた「音楽史」の物語は、いくつもの独立した音楽様式の鎖のような連なりとして描かれることになります。そしてこの本はまさにこのような見方から書かれた物語です。

本書では7世紀の単音列のグレゴリオ聖歌から20世紀の1970年代の現代音楽までの歴史をカバーしているが、著者が指摘するように、それは単純で素朴な形であったとしても楽譜として記録があるから残ったものであって、そうでない吟遊詩人をはじめとする世俗音楽は完全に失われてしまっている。そして楽譜が残っていたとしても、その演奏はどうなのだろう?

失われてしまった演奏の記憶

例えば、バッハの音楽は譜面が残っているが、譜面に記載されていることで音楽が再現できるのかはかなり怪しい。著者が指摘するのは、当時の演奏は作曲家本人を含むごく一部の音楽家に限られていて、その演奏の細部は演奏家の中で伝承されていて、スコアに記載されているのは。そのごく一部に過ぎない可能性がある。

しかも、バッハはその死後、ヨーロッパの変動の中で19世紀後半まで忘れられた作曲家だったので演奏の伝統も途絶えてしまっている。また当然楽器も違う。バッハの時代には小さなサロンで弾かれるようなハープシコードしかないし、弦楽合奏も小編成のものしかなかった。

これは僕が個人的に思っていることだが、20世紀に入ってからの大編成でのバッハの管弦楽や協奏曲の演奏や、ピアノによる演奏は、「バッハのスコアを元にした新たな音楽の探究」として聴くべきで、そこには演奏家がバッハのスコアにインスパイア(そのスコアの研究を含め)されて生み出されたもののウエイトが大きい。それは、指揮者メンゲルベルクの有名な独自の改編版とでる大規模な「マタイ受難曲」の演奏、グレン・グールドやタチアナ・ニコラーエワのピアノ演奏などは演奏家の芸術家としての表現が優っている。

その一方で1980年ごろから古楽復興では、「原点回帰」に向かい、当時の演奏方法や楽器への研究を基に、楽器の復元や小規模な編成でバッハの時代の演奏そのものを復刻させる演奏のコンサートや録音が多数リリースされて人気を得るようになる。ただ、そこにあるのは一種の考古学的な指向性のように思えるのだが。

「芸術としての音楽」の探究

西洋音楽はまず最初はキリスト協会、そして帝国の時代には王侯貴族に庇護されて発展していく。高度に洗練された音楽を持つことで、支配権力側にとっては自らの権力や威厳の表象であったり、社会的地位を誇示する、あるいは国家や政府にとっては国民を統合する手段として大きな利点があったことを意味していた。

「芸術としての音楽」の時代の作曲家は、「芸術音楽こそが最高の価値を持つ音楽である」という信念に基づいていた。20世紀のモダニズムの作曲家も「新しい(現代的な)芸術にこそ価値がある」という揺るぎない信条があった。

ベートーヴェンの時代だった18世紀から20世紀の「芸術としての音楽」のありようを著者は次のように総括している。

一八世紀半ばからほぼ二世紀にわたって、作曲家たちは、芸術音楽作品の創造に邁進しました。その創造の探究の結果、音楽の様式は多様に変化し続けます。そうした音楽様式の変化に応じて、この期間の音楽の歴史を、古典派、ロマン派、二〇世紀といったように区切って記述することが通例になっています。しかし、そうした変化の流れの底には、一貫して、「芸術としての音楽」という一定の考え方の堅固な土台があります。中世が「言葉の乗りものとしての音楽」を、ルネサンスが「言葉を収める伽藍としての音楽」を、そしてバロックが「音楽の劇場」の実現をめぐって展開したのだとすれば、芸術の概念が確立した一八世紀後半からその概念が崩壊する一九七〇年代までを、「芸術としての音楽」を追究した時代として一つに括って考えることができるでしょう。

モダニズムの終焉

そして20世紀になっても第2次大戦後しばらくは国家が支援する「芸術としての音楽」は続く、東西冷戦の中でソビエトでは共産主義を喧伝し、国民を鼓舞する音楽としてショスタコーヴィッチのような屈折した作曲家を生み出し、西側では国家が新しい先駆的な前衛音楽を文化的象徴として、シュトックハウゼンやブーレーズ、クセナキスといった作曲家を支援する。その絶頂期の1970年の大阪万博のパビリオンは前衛音楽や前衛芸術のショーケースだった。

しかし1970年代中頃から音楽を取り巻く様相は変わってくる。現代音楽ではテリー・ライリー、スティーブ・ライヒ、フィリップ・グラスといった米国勢が非西欧音楽を取り入れ、リズミックにフレーズが反復されるミニマルミュージックが台頭し、現代音楽の枠を超えてポピュラリティを得る。さらにアルヴォ・ペルトやグレツキなどによる中世音楽やロマン主義にも通じる新単純主義の作品のヒットなど、「新しい芸術を追及する」とは違った時間を遡るような方向に進み始める。

そして、クラシックだけに限らず、あらゆる音学ジャンルや芸術文化において「分かりやすこと」重要視されるようになる。それを著者は、「モダニズムの終焉」として次のようにまとめている。

もし、他の種類の音楽にも、芸術音楽と異なってはいても同等の価値があるのであれば、芸術音楽だけをことさら尊重する理由はありません。ましてや、音楽が、大衆におもねようとするこんにちの国家的な文化政策に効率的に利するものであり得るとすれば、それは、一般の聴衆との間に距離ができてしまった前衛音楽などではなく、大多数の人々がなじんでいるポピュラー音楽であるということになるのでしょう。

西欧音楽の歴史の「芸術としての音楽」は、1970年代に終わっている、と。

ポスト・モダニズムの時代

もちろん今でも「芸術としての音楽」がなくなったわけではなく、それは一部では続いているが、その様相は随分と違ったものになっている。純粋の音楽を追求する人たちは、例えばBandCampのような場所で直接聴き手も作品を伝えようと試みる。もう体制や文化エージェントはあてにはできない。

さらに音楽だけでなく他のジャンルにおいても、インターネット上でのソーシャルネットワークやビデオ共有、配信サイトなど、作り手の大衆化は恐るべき速度で進んでいる。昔、アンディ・ウォーホールは「誰でも15分なら有名になれる」と予見したが、今やTikTokの10秒のビデオがあれば、何億人もの人々からの注目を集めることができる。それを躊躇なく価値のない「くだらないもの」とできるのか? あるいは「異なった価値」として捉えるのか? 

著者は、今の状況を「それぞれに異なった固有の価値をもち、それらの価値の間に優劣はないとする相対主義的な考え方」が一般的になった時代と指摘する。

さきほど前項の終わりで、古楽の復興運動が「それぞれの時代の音楽にはそれぞれの価値がある」という考え方を導いたとお話ししました。これと同様の相対主義的な考え方は、じつは、過去の各時代の音楽についてだけではなく、現代のさまざまな種類の音楽──芸術音楽、諸民族の伝統音楽、ポピュラー音楽、など──に対しても当てはまるものです。つまり、西洋の芸術音楽も、日本の伝統音楽も、あるいは他のどこかの地域の伝統音楽も、ポピュラー音楽も、それぞれに異なった固有の価値をもち、それらの価値の間に優劣はない。そうした考え方が、徐々に一般的になっていくのです。

一見、こうした「相対主義的な考え方」は公平でオープンで理想的なように思えるが、ともすると批評や議論を受け付けない危険性を抱えている。「どれもが価値があって素晴らしい」というユートピア的な思想の先で待っているのは本当にユートピアなんだろうか?

この本の最後は唐突に終わる印象があるが、それはそのまま、この本が想定している若者たちに投げかけられているのかもしれない。残念ながら、もう僕にはユートピア的な思想の先のなにあるのかを見届ける時間はないだろうが。


© 2019 Shigeo Honda, All rights reserved. - 本ブログの無断転載はご遠慮ください。記事に掲載の名称や製品名などの固有名詞は各企業、各組織の商標または登録商標です。