Sound & Silence

本多重夫の音楽、オーディオ、アートなどについてのプライベートブログ

シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、バッハ - 古いボックスセットのレコードを聴く

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クラシックの箱物LPセットの話。ストリーミングの時代になってもロックやジャズのアニバーサリーボックスセットは手を変え品を変え登場するが、1960年代後半〜70年代後半に多かった豪華なクラシックのボックスセットは姿を消してしまったように思う。今ではチープな箱にCDが何枚も詰められた「全集」ものばかりになってしまったのは少し寂しい。当時は1万円〜2万円以上した高価なクラシックのLPボックスセットも今では場所を取るお荷物扱いなのか、ごく一部を除けば数千円のバーゲン価格で中古で売られている。僕が見かければ買っているのは現代音楽ものや20世紀前半の演奏家のもの。

シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンの音楽

最近手に入れたは、このシェーンベルク(Arnold Schoenberg, 1874 - 1951)、ベルク(Alban Berg 1985-1935)、ヴェーベルン(Anton Webern 1883 - 1945)の管弦楽曲と弦楽四重奏曲の全集。一般に「新ウィーン楽派」と呼ばれるこの3人はシェーンベルクとその門下生の二人で12音技法を確立し、無調の音楽を推進した20世紀前半における革新的な存在だった。

無調の音楽とは

かなり強引な説明かもしれないが、19世紀までのクラッシック(芸術)音楽は基音からルールにのっとって展開していく「調性」に依存してそれが楽曲全体を貫いていた。それでニ短調とかハ長調といった調整の名称が作品名に付いている。シェーンベルクがやろうとしたのは、音楽(作曲)をそうしたルールから解放して、12音全てを等価に扱えるシステムを作り上げることで「音楽を調性から自由にする」ということだった。それは同時に音楽がパトロンのものではなく作曲家と聴衆のものに解放された時代において、また近代を経て20世紀という新しい時代を迎え、より複雑となった社会や人間の営みを表現する音楽芸術ためには従来の調整の枠組みを超えた新しいフレームワークが必要とされていた。

同時代にフランスではラベルやドビュッシー、サティなどが新しい和音やエキゾチシズムの導入などを試行してしたし、東欧ではバルトークやヤナーチェクが土着の民謡や舞踏のリズムや音階を取り入れるなど、地域を超えて新しい時代の音楽に取り組んでいた。また、19世紀末の作曲家のグスタフ・マーラーも最後の交響曲10番において調整が曖昧でクラスターのような不協和音が聴かれる。

第2次対戦後に12音技法の影響はさらに広がり、戦後の現代音楽に重要な役割を果たし、多様な表現や芸術的な拡大の元となっていく。それはクラッシック音楽だけでなく、エリック・ドルフィー、スティーブ・レイシー、オーネット・コールマンなどのフリージャズや前衛、RIO(ロック・イン・オポジション)系のロックアーティストにも大きな影響を与え、ジャンルを超えて広がっていった。

新ウィーン楽派の弦楽四重奏曲全集 / ラサール弦楽四重奏団

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これは米国のラサール弦楽四重奏団の演奏をまとめて1972年にドイツグラモフォンからリリースされたボックスセットで、LPレコード5枚と200ページに及ぶ書簡、論文、講演、楽譜などの資料をまとめられた書籍が入っている。日本でのリリースは「昭和47年度芸術祭優秀賞」を受賞している。

内容は、シェーンベルク初期の調性時代を含む5つの弦楽四重奏曲、ベルクの2つの作品、ヴェーベルンの4つの作品が収められている。同時期の、やはり米国のジュリアード弦楽四重奏団のシェーンベルクの作品集と比較するとジュリアードの演奏や録音が非常にドライで音列の動きや作品のテクニカルな部分にフォーカスがあるのに対して、ラサール弦楽四重奏団の演奏は録音がウエットなこともあって、12音技法の作品をヨーロッパの音楽史の中で捉え、作品の抒情的な側面にスポットライトをあてている。当時としても優れた演奏だったし、今聴いても技巧的にも表現的にも聴きごたえがり、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンの3人の作風の違いがより際立っている。

シェーンベルクは19世紀末のマーラー、シュトラウスからの伝統を引き継いで、その中で音楽を発展させようとしているのに対して、一世代下となるベルクはそうしたロマン派的な伝統からは影響を受けながらも無調による表現を加えることで3人の中では最も抒情的で折衷的な音楽世界を生み出し、ヴェーベルンは高い集中力で12音技法による凝縮された厳しい表現の作品に取り組んだ。

ヴェーベルンの音楽の凝縮度は極めて高く、例えばシェーンベルクの4楽章の弦楽四重奏曲が30分程度あるのに、同じ形式のヴェーベルンの作品は6分程度しかない。短い楽章ではたった40秒しかない。

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このあまりの短さのため、初演時は冗談のような音楽と思われようで、観客から笑い声が起きたと言われれている。

弦楽四重奏曲は、4つの弦楽器の旋律が絡み合う線的な音楽であることが最大の魅力だと思っていて、その音の織物のような形態は、この12音技法の特質を感じさせてくれる。

新ウィーン楽派管弦楽曲集 / ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

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これは前記「新ウィーン楽派の弦楽四重奏曲全集」に続いて、1975年にドイツグラモフォンからリリースされた、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンのオーケストラ作品の LPレコード4枚組のボックスセット。当時は「カラヤンが現代音楽を振った」と話題になったもの。

改めて中古レコードで聴いてみても、50年前の録音とは思えないほど新鮮に感じる点もある。ベルリンフィルという超Aクラスの演奏家だけを集めたオーケストラを、これも指揮者のスターシステムを確立した頂点のカラヤンが振るというのもの。この時期のカラヤン指揮ベルリンフィルはその関係性が極めて密で、ブラームスでも、バルトークでも、あるいはプッチーニのオペラであっても全部「ラヤン指揮ベルリンフィル」の表現の世界に収れんされていく。

それは美的なものではあるのだが、非常に耽美的な性格が強いように思う。ただそこに淫するようなことはしない。なのでこの人のワーグナーは過剰なドラマ性よりも、抑制された、それでいて耽美な旋律のうねりを最後まで維持していく。このセットでは、シェーンベルクの初期の作品である「ペレアスとメリザンド」、「浄められた夜」でそうした傾向は顕著で、これだけ濃密で耽美的な演奏というのは他では聴けない。まるでワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を聴いているかのような演奏。

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ベルクもヴェーベルンも同じ傾向ではあるが、やはりベルリンフィルはの演奏の巧みさが、録音当時作曲から50年の作品をすでに「新たな古典」として捉えていることがわかる。ただ、そうした演奏は、これらの12音技法の作品がロマン派から受け継いだ歴史の中にあることを明示的に示してはいるが、12音技法が目指した調整からの解放という大きなテーマは希薄になってしまっている気がする。

J.S.バッハ オルガン全集第1巻 / ヘルムート・ヴァルヒャ

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もう一つは、バッハのパイプオルガン曲全集第1巻のLP8枚組のボックスセット。ドイツオリジナル盤に日本語の解説が付いたもので1971年の価格は18,000円。僕が中古で買った時は1,800円だった。全部揃えると3セットでLP24枚組になるようだ。

バッハ (Johann Sebastian Bach 1685 – 1750) は、その65年の生涯において1000曲以上を作曲した多作家。その中でも教会がスポンサーとなるオルガン曲は、神の栄光と尊厳を表し、また時には聖書の物語のサウンドトラックであることを求められた。誰もが知っているあの「トッカータとフーガニ短調」のドラマチックな音楽は、そうした教会の意向を最も端的に表しているかもしれない(このボックスセットでは1枚目に「トッカータとフーガニ短調」が収録されているが、前オーナーはそればかりを聴いていたようで、残りの7枚はあまり聴かれた形跡がなかった)。

バッハの音楽は彼の死後は「時代遅れのもの」と評価され、約100年後にメンデルスゾーンによって復興されるまで忘れられた存在だった。バッハが属した「バロック時代」という名称も後に付けられたもので、バロックには「過剰に装飾されたゴテゴテしたもの」という蔑視的な意味が含まれている。バッハの音楽は第2次大戦後に当時の演奏様式などの研究も進み、さらに広く聴かれるようになってくる。

バッハの作品には現代音楽に通じるようなところがあって、特に晩年の「音楽の捧げ物(1747)」「フーガの技法(1746-未完成)」に見られる点描的で空間的な音列の配置は、ヴェーベルンに通じるとことがあり、実際、ヴェーベルンも「音楽の捧げ物」の冒頭のリチェルカーレの管弦楽編曲版ではその共通性に共感したような神秘的で瞑想的なアレンジを行なっている。

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僕がバッハの鍵盤音楽作品、特にパイプオルガンの作品に惹かれるのは、単なるハーモニーではなく、決して澱んだりしない川辺で水の流れを見ているように、いくつもの線的な旋律が交差する重層的な音楽であり、空間への浸透度が高い。特に一連の「プレリュードとフーガ」や「トリオソナタ」作品は、そうした線的な構造の美的な空間を感じさせる。

バッハの鍵盤楽曲を聴くときに、ヘルムート・ヴァルヒャ(Helmut Walcha 1907 - 1991)という盲目の奏者の演奏をを好むのは、前記した線的で重層的な構造をより深く理解させてくれるからだ。彼に関する資料によると19歳のときに視力を失ってから、最初は彼の母親、次はパートナーがスコアを分解して弾いて聴かせ、彼はそのパートごとに記憶して頭の中で組み立てて演奏するという方法をとっていた。そのためレパートリーはバッハの鍵盤作品に限られるが、パートごとの旋律への理解は深く、それが彼が弾くバッハを特別なものにしている。

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決して大袈裟な身振りではなく、その音楽の内側の奥まで入り込んでいく。彼の演奏で聴くと18世紀のバッハの音楽が、20世紀の無調の音楽やミニマリズム、アンビエント、エレクトロニカを結ぶ線上にあることが理解できる気がするのだ。


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