Sound & Silence

本多重夫の音楽、オーディオ、アートなどについてのプライベートブログ

ベートーヴェン/後期弦楽四重奏曲 - 耳が聞こえなくなった作曲家の音楽

ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770 - 1827)は学校の音楽室にこのジャッケットのような胸像が飾ってある大作曲家。年末なれば「第九」の「歓喜の歌」のメロディが流れてくる。ドイツを除けば日本ほど第九が好まれている国はないだろう。元はドイツの一地方の習慣だった年末の演奏が日本では年末の一大イベントと化している(日本ではオーケストラ楽団員や合唱団の年越しの給与のために始まったという説も)。

「交響曲第9番」は40代後半から作曲が始まり1824年の 54歳のときに初演された作品で、彼の作品としては珍しく初演から成功だったと伝えられており、耳が聞こえない彼を指揮者が観客方に向けて立たせて、初めて作品の成功を知ったという有名な逸話も残っている。本作にはドイツの地方の民謡のメロディが引用されるなど、非常にドイツ民族的な要素が大きく、それが当時ドイツでの民族主義の高まりと相まって成功につながったという説もある。それは、1846年にリヒャルト・ワーグナーが周囲の反対を押し切って、「交響曲第9番」を演奏レベルが最高の陣営で再演して喝采を得たことからも推測できる。

音のない中で作曲された後期弦楽四重奏曲

交響曲第9番の初演当時にすでに聴力を完全に失っていたベートーヴェンは、1827年に亡くなるまでの数年の間に、第12番から16番までと『大フーガ』の6曲の弦楽四重奏を書き上げている。ベートーヴェンは異なる作品を並行して作曲することが知られており、これらの弦楽四重奏曲も番号順に完成されたわけではないようだ。また、中には交響曲第9番で使用されなかった素材が取り入れたものあると言われている。とは言っても、耳が聞こえず、健康もすぐれない中で、短期間にこれだけの作品を残す創作意欲には執念のようなものすら感じる。

もしかしたら耳が聞こえないからこそ頭の中で鳴り響く音楽に集中することで作曲が進んだのかもしれない。作曲家にとって弦楽四重奏などの室内楽には、よりその精神の内面が反映されるところがあり、ベートーヴェンも例外ではないだろう。作曲家の晩年によくある、若かりし日々へのノスタルジアのようなものや達観したような眼差しが入り混じっている。

全体のトーンは晩秋を思わせる色彩を欠いた風景が展開していく。何番の弦楽四重奏がどうというよりも、ある種のアンビエントミュージックのように音楽が空間に浸透する。おそらく最も有名なのは第15番の第3楽章のリディア旋法による神への感謝のメロディで、その瞬間だけ雲の切れ間から陽が差し込むような明るさに包まれる。

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ただ、このベートーヴェンの神への感謝も束の間のことで、1827年には長年の多量の飲酒が原因の肝臓病で57歳で亡くなる。

後期の弦楽四重奏以外は聴かないけれど

僕はベートーヴェンはこの後期の弦楽四重奏以外は、稀にピアノのクララ・ハスキルのボックスセットに入っているピアノ協奏曲を聴くことを除けば、ほとんど何も聴かない。後期の弦楽四重奏に興味を向けたのは、何かで14番を聴いて、それが耳が聞こえなくなった作曲家の音楽であるというこに気がついたから。

目の見えない画家というのは存在しないだろうが、白内障が進行した晩年のモネにように世界をぼんやりとした映像でしかとらえられなくなり、それが反映された「睡蓮」の作品群のように巨大でありながら何も主張しないものが生み出されることがある。見る物は、ただモネの見た曖昧な世界の風景を追体験することで、自分が見ている世界とは何かに思いをはせることになる。ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲にも同じようなことを感じるのだ。

あまり人気のある作品ではないので録音は多くないが、この2つの弦楽四重奏団の演奏を好んで聴いている。

1945年から1980年まで活動していたイタリア弦楽四重奏団による演奏は、国民性を反映してか音色は明るいが華美になることはなく、作品の本質を大切にしながらも、ドイツ的な表現とは異なり繊細なシルクの織物のように各パートが美しく交差していく美的な表現に。この弦楽四重奏団は現代音楽ではヴェーベルンでも美しく鮮やかな演奏を残している。

ウィーンの名門弦楽四重奏団であるバリリ四重奏団は1951年から1960年と活動期間は短かったがモーツァルトやベートーヴェンの演奏をウエストミンスターレーベルに残している。重厚でスコアに迫る精緻な演奏でこの後期の作品を描きだし、いかにもドイツ=オーストリア的な表現でベートーヴェンのアイデンティティを伝えている。

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約200年前の音楽を60年以上前の演奏家の残した録音で聴く。200年で変わったことと変わらなかったこと。古いものを聴くと音楽に限らずあらゆることが歴史の1本の線上にはないことを再認識する。歴史はいくつもの交差した線であり、途中で切れているもの、つながったものが入り乱れている。時間の蓄積はその総体であり、それを解きほぐすのではなく、どの角度から捉えるかでその姿は絶えず変化する。

ベートーヴェンは200年後に自分の音楽がこんな風に聴かれることを期待していたのだろうか?


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