自分の中での理想は毎週1つはブログの原稿を書いて公開することなのだが、現実はまったくそんなペースでは進んでいない。書くことは生活の一部で、仕事のことはもちろん、自分の制作している音楽のことであったり、忘備録な記録であったり、いろんなことに対する雑感であったり、iPadに向かって毎日何かを書いている。
しかし、ブログの原稿だと、書き始めてみたもののボツにすることも少なくない。最近だと「静かで少し寂しいプライド月間」や「Derek Baileyのこと」、「好きだったアーティストから気持ちが離れる時」などはボツになった。
毎年6月はLGBTへの理解を進める「プライド月間」なのだが、政治的な状況の変化もあり今年は非常に静かで低調だった印象。以前は、支援を大きくアピールしていた海外テック企業やコンシューマ企業も今年はとても控え目なものか、ほとんどアピールされることはなかった。近年、LGBTはあまりに政治的な動きに巻き込まれ、極端な主張がされたり、当事者不在で政治的に利用され過ぎているように思える。そんなことを書いたのだが、部外者の自分がそんなに書いてもいいことなのか悩むところがあってボツに。
少し前にBandcamp.DailyでフリージャズギタリストのDerek Baileyが取り上げられていた。その記事を読んで亡くなって20年が経つことがわかって、一時期(10代の後半から30代中頃まで) Derek Baileyやヨーロッパのフリージャズをかなり聴いていたことを考える記事を書き始めたものの、今は以前ほどそうした音楽への興味を失っていていて、どうも記事としてまとめることができなかった。
年齢を重ねて嗜好が変わったことよりも、僕の性格的な事だと思うが、あるアーティストやジャンルを集中的、あるいは継続的に聴き込むことがあるが、あるとき突然、まったく興味を失ってしまうことがある。それは音楽的な方向性の転換ではなく、大衆化や政治的な発言を始まり、非常に表層的な存在になってしまったことへの失望感によるものが大きい。ソーシャルメディアで言わなくてもいいことを書いたり、説教臭くなるアーティストも少なくない。最近あきれたのは、「Microsoftはイスラエルに協力している(オフィスソフトやクラウドサービスのことらしい)から、以前、自分が制作したWindowsの起動音の印税をガザ支援に寄付する」と語ったBrian Eno。時代遅れの勘違いの的外れ。でも、それを批判しても虚しい気が止めてしまった。
アーティストなら言葉ではなくアートで表現して闘争すべきではないか。
今年のMassive AttackのツアーでのTim Buckleyの「Song For Siren」のカバーは、ラジカルで説得力がある。ジャンコクトーの映画「オルフェ」の鏡を通り抜けて黄泉の国への旅のシーンが、ガザやウクライナの戦場にオーバーラップしていく。Ultravoxの「ROckwork」のカバーもいいし、アンコールの最後が「Teardrop」というのがすべてを象徴している。今を考えるとはこういうことだと思う。