前の記事でMarantz Model 7のことを「その音はカルフォルニアの青い空」と書いたが、Marantzが拠点を西海岸に移したのは1964年のことで、このModel 7の頃はニューヨークの郊外に拠点があったわけだから「その音はカルフォルニアの青い空」という表現は変だったかもしれない。
僕がこのModel 7の音から感じるのは、カルフォルニアといっても乾いた砂漠のようなロスやロングビーチではなく、冬のサンフランシスコの青い空。仕事で昔は毎年1月にサンフランシスコに行くことがあったが、1980年代末頃の冬のサンフランシスコは1日に四季があるようなの。朝は日によって冷たい雨が降り寒いが、陽が出る日中はTシャツ1枚で過ごせるほど暖かくなり、また夜になると上着が必要な温度になる。当時はスモッグもあまりなく、冬の澄んだ青い空を満喫することができたものだ。緯度の関係なんだろうか、東京とは違う開放感のあるスカイブルーの色だった。そんな風景を思い起こさせる音なのだ。
いかにリアルに心地良く音楽を生き返させるか
物理特性ならこんな60年前のアンプよりも今の同価格の製品の方が遥かにすぐれいるだろう。そもそもCDやレコードで音楽を聴くということは、パッケージに閉じ込められたスタティックな状態にある音楽情報を、生き生きとしたダイナミックな音楽として命を再度吹き込むようような行為のはず。なのでオーディオ黎明期のエンジニア達は、いかにリアルに心地良く音楽を生き返させるかに苦心したのではないだろうか。
このMarantzのModel 7は部品の量がとにかく多いし配線も手作業。プリント基盤を使用しないで空中配線で大量のコンデンサや抵抗、真空管を組み合わせて巧みに音作りがされている。集積化が進んだ現在のオーディオ製品とは全くアプローチが異なるし、今ではこうした製品を作り出すことはほとんど不可能だろう。こうしてModel 7を手元に置いて聴いていると、大切な産業文化遺産なんだと思えてくる。
透明感にあふれ空間的な表現
以前、「コントロールーアンプが再生音の70%を決める」という話を読んだことがある。オーディオの再生はプレーヤーの入力から、コントロールアンプ、パワーアンプ、スピーカーまであるわけで、その中で音色を最も左右するのがコントロールアンプというのは確かだろう。再生される音楽の性格や表情がそこで決まってくる。
Model 7の最大の魅力は、透明感にあふれ空間的な表現に優れた中高域にある。それを支える低域は過剰になることはなく、しかし、しっかりしたボリューム感で音楽の土台を支えている。なので、音像がグイグイと前に迫ってくるような再生音ではなく、Model 7が描き出すサウンドスケープの空間に包まれるようなリスニング体験となる。
再生音に生気があり「美しく、優しく、激しく」といった感じだろうか。クールに構えてしまうのではなく、熱いところ熱く、肉感的な表現にも長けている。それがジャンルを選ばずに、魅力的に再生できるポイントになっている。確かにこのサウンドを聴いてしまうと虜になる理由がよくわかる。
伝説のフォノイコライザー
Model 7は、評価の高い独自設計の2段NF型プラスと言われるフォノイコライザを内蔵している。実際にこの内蔵フォノイコライザを使ってみると、60年前のものとは全く思えない瑞々しい再生音で、最新のLinuxman E-250を凌駕せんばかり。これには本当に驚いた。SN比は高く分解能は申し分ない。ジャンルを問わず演奏にリアリティがある。それでいて、盤ごとの違いも性格に反映している。このアンプの音色と相まってこういう艶のある再生音は他では聴いたことがない。今まで聴いていたレコードの音はいったい何だったのかと思う。
時代的にSHUREのカートリッジとのマッチングも申し分ない。M44Gがこんなに自然に生き生きと鳴るのは初めてかも。70年代ハードロックがいかにも、その時代の空気を運んで来たよう。このBedramはドラムのコージー・パウエルが73年に結成したグループでこのアルバムしか残さなかったが佳作。こうしたアルバムを聴く時は個々の楽器よりも、バンドとしてのうねるようなグルーブ感が出るかどうかが大切で、Marantz Model 7は、そうしたグルーブ感をしっかり描き出してくれる。
このアンプはLPレコード初期のころにリリースされたこともあって、SP盤用のフィルタと合わせて、RIAAと少し異なる米コロンビアカーブに対応するモードもある。米コロンビアカーブは70年頃まで使われていたという話もあるが、確かにこの古いGlenn Gouldのバッハのレコードでは、コロンビアカーブの方が自然に聴ける気がする。
カートリッジをV15 typeIIIに変えると音楽の細部も鮮明。ただ僕の環境では、レコードとの相性か特に60年代、70年代ロックでは楕円針よりも丸針を装着したほうが音楽的なバランスは良かった。
V15 typeIVにすると、ぐっとハイファイ調のサウンドになる。高音質という意味でならこれがベストマッチングかもしれない。オールラウンドで何を聴いても破綻せず、バランス良く聴かせてくれる。V15 typeIVがハイエンドカートリッジだった意味がよくわかる。 このカートリッジ でRobert Wyattの復帰作だったRock Buttomを聴くと、彼のボーカルの細かいニュアンスをリアルに聴くことができる。
CDもApple Musicもいい
Marantz Model 7で聴くようになってから、レコードを聴いている、CDを聴いているという、感覚的な区別がなくなりつつある。コントロールアンプのサウンドカラーが支配的になるのか、CDを聴いてもアナログ的な充実感がある。そのせいか、Model 7になってからCDもよく聴くようになったのには自分でも驚いている。
ただ、ときどき流行りのリマスター音源だと妙な音の固さが気になるときがある。むしろ昔発売されていたアナログマスターからそのままトランファーされたCDの方が音の伸びが自然に感じ。今の最初からデジタル録音されている音源は、デジタルならではの滑らかでクリアな再生音なので、デジタルだから悪いということではない。つまり、リマスターやリミックスの問題なのだろう。
USB DAC経由でのAppleMusicでも同じ傾向。スケール感はややこじんまりする傾向があるが、Apple Musicってこんなに音が良かった? と思うほど。最新のiPadと60年前のModel 7の時代の超えた組み合わせは、見ていると不思議な気分になる。
ビンテージはレトロではなく、失われた感覚を取り戻すこと
Marantz Model7を数週間聴いていて思うのは、ビンテージ=レトロではないこと。本当に優れた製品は年月を超えて迫るものがある。もちろん、最新のアンプのようにBluetoothやネットワーク接続があったり、ソファーに座ったままでリモコンで操作したりといった使い勝手の良さは皆無。ボリュームを変えるだけでも、アンプの前まで歩いていく必要がある。でも、ソースによって、その都度ボリュームを変えたり、トーンコントロールを調整したりと言った手間をかけるのが面白い。
ストリーミングの時代になり、デバイスの画面に触れるだけで、直ぐにどんな曲でも再生できるようなったけれど、聴く方の態度はどうなんだろう。なんとなく音楽が鳴っているだけで、マルチタスクばかりしていて、あまり聴いていないのではないか。
Model 7になってから、1枚のレコード、1枚のCDをちゃんと聴くようになった。もちろん、魅力的なサウンドでそれだけ音楽の訴える力が強くなったということもあるのだろうが、その音質と合わせてModel 7の存在そのものが、音楽に真摯に向かうようになった理由のように思う。最初にレコードを買い始めたころは、同じレコードをそれこそ何日も繰り返して聴いたことを思い出す。それは懐かしさの中にある感覚ではなく、失われていた感覚を取り戻すことができたように感じる。僕にとっては、それが一番の収穫だった。