このブログを始めた2018年に、古いのMarantzのセパレートアンプを購入して、それまでのピュアオーディオとは異なる方向に進み始めて今年で7年になった。きっかけは、それまでの高解像度、高音質のオーディオの音に飽きてしまったこと。「飽きた」というとなんだが、そうした再生音で音楽が楽しめなくなった自分がいることに気がついた。言葉を変えるとピュアオーディオの「特性的に良い音」というのが「自分が好きな音」ではないとことに気づいてしまった。
ある時まで、「特性的に良い音」というのが、正しい道というか、大仰に言えば、それを突き詰めれば聴いている音楽の本質に近づくのではないかと考えていた。その道を進むと、確かに再生音の解像度は上がり「情報量」は増えていく、それ以前は聴こえなかった音(楽器の減衰音や附帯音、ホールやスタジオのエコー成分、演奏の微妙な細部 のアンサンブルなどなど)が、電子顕微鏡で観察するかのように、どんどん聴こえてくるようになる。それはそれで「こんな音が入っていたのか!」という新たな発見の連続で楽しい時間ではあったけれど、あるとき、「その細部の音は本当に聴かれれるべきものなのか? それが聴こえなかったことで、その音楽の価値は変わるのか?」という疑問に突き当たった。
ピュアオーディオが追求する理想の再生音というのは非常に特殊な世界。生の楽器の音とも、コンサートホールやライブハウスでの聴ける演奏音とも全く異なるもので、実在しない理想の音を家庭内やリスニングルームの中で鳴らそうという、ロマンチックというか、高度に理想主義的なイデオロジーに支えられている。例えば、ハイレゾ音源をハイエンド製品の組み合わせで聴くと、例えばピアノは目の前で弾かれているように感じるほど美しく「リアル」なのだが、その「リアル」はおとぎ話の中にしか存在しない「リアル」な世界というパラドックスに陥る。
クラッシックでも、ジャズやロックでも、生の音はもっと雑味があり暗騒音やノイズが付きまとっている。座席によって音質は大きく異なるし、音のバランスは悪かったり、歪んでいたりするが、でもそこには熱狂がある。
情報として音楽を聴くことから人の営みとしての音楽を聴くことへ
僕にとって気持ちよく聴けるのは、情報としての音楽ではなく、生身の人間が試行錯誤して生み出している音楽であるとことが伝わってくる、細部へのこだわりではなく音楽の芯のようなものをしっかり描き出してくれる、美しいものは美しく、グロテクスなものはグロテクスなまま伝えてくれる、そういうサウンドであることがわかったきた。
そうなると、聴く音楽の中心となる1960年代〜1980年代のスタイルに合った、自分と同世代の当時のオーディオシステムに向かっていく。最新のMCカートリッジよりも古いSHUREの MMカートリッジ、アンプは60年代から70年代のMarantzのアンプとなる。プレーヤーも40年近く使っているMicro BL-77はそのまま。スピーカーは国産スピーカーが頂点だった1980年代のトリオのLS-1000。CDプレーヤーは高級機ではなく、CD黎明期のMarantz CD-34やNakamichi CD-4といった音楽性が高いエントリーモデルの方が合ってくる。
ケーブルも高価な6N、8Nや銀線ではなく、MIL規格の線材を使ったものだったり、ヴィンテージのWesternを使ったものに。iPad ProをApple Musicのハイレゾストーミングを聴くために設置していたが、それも外してしまい、レコード、CDしか再生しないシンプルなものにした。
自分のスタイルに合ったシステムになってきたことで、音楽を聴く時間が以前よりも充実したものになってきた。古いものなので、聴く30分前には電源を入れておかないと調子がでなかったり、そもそもSN比がそれほどよくないので、ボリュームを上げるとごくわずかにハム音がしたりするが、音楽が鳴り始めれば気にならない。すごくシンプルに音楽と向き合う時間。
古い音楽も新しい音楽も、同じように今の時間の中に流れていく。