よく前衛音楽や即興演奏に対する批判に、猫がピアノの上を歩くのと人がピアノを弾くのと何が違うのか?というのがある。もし予備知識なしで両方を録音されたものを聴かされたら、違いはわからないだろう。人の耳だけではその違いを判別できない。
つまり、僕らはそうした音楽を聴くときや抽象画を見るときに、ある前提条件を付けている。それはアーティストという「人」が介在した意図や意思、英語でいう「 intension」 が含まれているということ。例えば、猫がピアノの上を歩く音を数時間分録音して、それを人が編集すれば、もはや猫の音楽ではなく「作品」となる。即興演奏にしても図形楽譜による演奏やチャンスオペレーションによる演奏であったとしても、人が演奏するなら、なんらかの「 intension」 が存在する。
もう一つは「空間」。これは以前記事にした「Art Power」という本でも指摘されていることだが、コンサート会場やライブハウス、アートギャラリー、美術館という空間に作品があるとき、それを観客はどんなものであったとしてもアートとして見る、つまりそうした空間にあれば自動的に芸術であるというお墨付きが得られることになる。なのでラジカルな表現は、何の関係もないストリートでいきなり演る即興演奏なのかもしれない。
そんなことを考えるきっかけになったのが、フランス人アーティストCéleste Boursier-Mougenotによるインスタレーション「Form Here to Ear(ここから耳へ)」の映像を最近知ったことにある。1999年から2000年にかけて各国を巡回した人気インスタレーションだったようだ。
内容は、アンプに接続されたエレクトリックギターを何本も水平にセットした空間に70羽の小鳥のキンカチョウを放し、その鳥たちがギターの上に止まったり、動いたりして弦を擦る音を聴くというもの。
上のビデオの初期のバージョンではギターの音がダイレクトでハードな感じがするが、下のビデオの後期バージョンになるとギターにはデジタルディレイがエフェクト処理されて、緩やかに空間をその響で満たしていくし、その背景では小鳥の鳴き声が聞こえてくるというアンビエント指向のインスタレーションに変化している。
このインスタレーションが来場者の人気を得た理由はよく分かる。ビデオを見ての通りで、白いエレクトリックギターがきれいだし。その上にのるカラフルなキンカチョウの姿や動きも愛らしい。音も過激なものでなく、点描的に空間を満たしていく感じは初期のジョン・ケージの作品のようだ。そうした視覚的、サウンド的な分かりやすさが、いつもと少し違った日常を求めて美術館を訪れる観客の期待に見事に応えている。
こうした作品を「センスが良い(不思議な褒め方ではあるが)」とするか「あざとい」と批判するかは、とりあえず傍に置いておこう。ただ、こうした流れは現代アートに潜んでいて、ふと最近のカタログを見ると、アニメタッチか、猫か、ミニマルがほとんどだったりする。売れるとはそういうことなのか?
分からないものを分からないまま受け止めてみる、ということはもうオールドスクールな態度になってしまったのかもしれない。
(*タイトル画像はYouTubeからキャプチャしたもの)
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