Sound & Silence

本多重夫の音楽、オーディオ、アートなどについてのプライベートブログ

見た目のわかりやすさに囚われず、具象と抽象の間で心で感じること

「わかりやすい」ことが重要視される具象化の時代

21世紀になってからこの20年近くは、ビジネスやデザインをはじめ、日常生活のいろんな分野において、「直感的であること」「わかりやすいこと」が非常に重要視されてきた。ソーシャルメディアを筆頭にあらゆるメディアで視覚的にわかりやすく、伝えやすく具象化することが、ビジネスの成長やイノベーションの過程で強く求められるようになってきた。

スマートフォンをはじめとするあらゆるデバイスにおいて直感的に操作できるインターフェース、ビッグデータのビジュアライズ、プロセスの可視化、ミーティングにおけるグラフィックレコーディング、誰もが容易にアクセスできるようになった地図情報、その上にマッピングされるデータ、消費を刺激し「購入ボタン」を押させるようとするアイコン、マンガになっているランディングページなど、あらゆるものが視覚的にわかりやすくビジュアル化されて映り出される。そして、デザイナーの主な仕事はトレンドや目的に合致したビジュアルをいかに創り出すかにウエイトが置かれる。

「わかりやすい」の罠

限られた時間内に的確な判断が求められるときに「わかりやすいこと」は極めて重要。また誤解や誤認による事故を未然に防ぐためには直感的で用途が一目で認識できるインターフェイスが欠かせない。

ただ全ての「ものごと」で具象的な「わかりやすさ」を推し広められることに、だんだんと違和感を覚えつつある。つまり、過剰な「わかりやすさ」に触れてしまうことで表層的に「わかったつもり」になっているだけの危険性はないだろうか?

直感的なインターフェースは、利用者を自分たちの利益に誘導するベルトコンベアになってはいなか?

ビジュアライズされたデータが示しているのは、本当に取り組むべき価値のある課題なのか?

わかりやすい断片的なメッセージやビジュアルばかりに触れていて、単に反射的なリアクションばかりになっていないか?

マーケティングアプリ開発ではエクスペリエンスがバズワードだが、それを無理に定量化していないだろうか? 人の感じる心地良さは本当に数字で測れるのだろうか? それは固定化できるものなのか?

その「わかりやすさ = 具象」を疑問なく受けて入れてしまうことで、抽象的な思考から疑問を投げかけたり、より深い心の理解に進むことを無意識に放棄してしまうことは危険はないだろうか。

具象と抽象、抽象と具象の間でエンコード、デコードを繰り返す

本来、人は具象的なものを見て、その視覚の情報を抽象的な意味、言葉にならない心の中の思いにデコードして感じ取れる能力がある。

例えば、目に見える具象の世界では、ダ・ビンチの描いたモナリザは「のどかな風景を背景した女性の絵」であり、ミケランジェロダビデ像は「若い裸の男の彫刻」であり、ダリの「記憶の固執」は「グニャグニャに溶けた時計」が描かれているだけに過ぎない。

これらの作品が時代を超えて魅力があるのは、モナリザとは誰なのか? その微笑みの意味は何なのか? ダ・ビンチがこの絵に込めた思いなんだったのか? という抽象的な概念に思いを馳せて、作品の中に自分が入っていくことができるからだ。それも作品を見たり考えたりするたびに様々に異なった思いを抱く。

さらに作者の心に近づくだけでなく、作品にエンコードされたメッセージと自分のフィーリングをリミックスして、作品にインスパイアされた全く別の表現の結びつくこともあるだろう。

反対に音楽は抽象の世界にあって、マーラーのシンフォニーであれ、ストーンズの「サティスファクション」であれ、レディオヘッドの「OKコンピューター」であれ、元は形のない空気の振動にしか過ぎない。聴き手はその振動を耳にすることで、打ちのめされたような気分になったり、泣きたくなったり、はじめての言葉にならない感情を感じたりする心の変化があるだけでなく、気分が高揚して立ち上がったり、心地よく体を揺すって踊ったりという行動になることもある。それも、ダンスフロアの音楽のように即効性のあるものもあれば、繰り返し聴くことで少しづつ作品に近づいて具体的な音楽のメッセージが得られるものもある。

あるいは、日常の生活の中で、例えば夜の人気のない公園で一人で泣いている小さな子供を見かければ、何か漠然と悪い事が起きているのではないかと想像して声をかけたり、警察に連絡をしたりするだろう。

つまり、本来なら何かを見たり聴いたり、何かを考えたりするする度に、具象と抽象、抽象と具象の間でエンコードとデコードを繰り返していることになる。

抽象的に感じる、考えることの大切さ

スマートフォンソーシャルメディアの時代の断片的なメッセージや加工された写真でのコミュニケーションの中では、どれだけLikeされたかやフォローされた数がその価値となる。それに、美術館やコンサート、映画に出かける前に既にメディアに溢れる情報を浴びてしまい、その情報の追確認にために足を運ぶ観客達の長い列。これでは自分で抽象的に受け止めることは困難になるだけだろう。「共感」と「同調」の区別もなくなり、人と違う感じ方をすることすらできなくなってしまいそうだ。

AIがモナリザの絵を見たら「のどかな風景を背景した女性の絵」であるだけで、それ以上でも以下でもない。AIはその微笑みの意味を考えたり感じたりはしない。言葉ならない思考や感情といった抽象的な概念を生み出したり、受け取ったりできるのは人の心だけ。コミュニケーションとは「自分と他者の間で心から心へ伝える」ことではなかったか。

現実の世界も、人間も、その営みも、実はとても複雑なもので、それを理解した気分になってしまうためのショートカットとして「わかりやすさ」が重宝されてしまう。いつからか「理解できないものを抽象的に受け止める」ことをよしとしなくなってしまった。その一方で多様性や共生が主張され、イノベーションが賞賛されるが、それらは本来レベルの高い抽象化が求められる行為だ。

では、どうしたら具象と抽象の間で上手にエンコード&デコードができるのようになるのか? 残念ながらその「わかりやすい」方法はない。きっと、インターネットのどこかには、「抽象的思考を鍛えて問題解決のプロになる10の方法」といったような記事が書かれているだろうが、それを読んでも多分なんの役にも立たないだろう。

スマートフォンをどこかに締まって鍵をかけ、作者や作品に関する予備知識ゼロの状態で本を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いてみて、それらの作品と自分との関係を考えてみるといい。他人の価値観ではなく、自分のだけの価値観でそれらの作品を対峙したしたときに心の中にどんな変化が起こるかを感じてみる。それこそが本当のエクスペリエンス。そうした小さなエクスペリエンスの積み重ねが、抽象的に感じる心をつくり、きっと人生で役に立つときがやってくるだろう。


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